「「自由」の名のもとに生活はあらゆる構成を失う」(E. フロム)
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社、1951年より。
※下線・強調は引用者
批判的な思考能力を麻痺させるもう一つの方法は、世界について構成された像をすべて破壊することである。さまざまの事実は、それらがくみいれられた全体の部分としてのみもつことのできる特殊な性質を失い、たんに抽象的な量的な意味しかもたないようになっている。それぞれの事実は他の事実とまったく同じものであって、問題はわれわれの知っていることが多いか少いかということだけである。ラジオ、映画、新聞がこのことにたいして有害な結果をもたらしている。都市の爆撃や何千というひとびとの死を報ずるニュースに、なんの恥ずかしげもなく石鹸や酒の広告がつづき、ニュースを中断している。暗示的印象的な権威ある声で、政治情勢の重大さを放送したばかりのその同じ放送員が、今度はニュース放送に金を払ったある石鹸の品質のよさを聴衆に吹聴している。ニュース映画では、水雷艇の画面に続いてファッション・ショーの画面がでてくる。新聞は陳腐な考えやニューフェイスの朝食の仕方を、科学的あるいは芸術的な重要事件を報ずるのと同じスペースと真面目さで、われわれに報道している。以上のようなすべてのことによって、われわれは自分の聞いていることに純粋に関係することができなくなる。われわれは興奮することがなくなり、われわれの感情や批判的な判断は妨害され、ついには世界におこっていることがらにたいするわれわれの態度は、平板な無関心な性質のものとなる。「自由」の名のもとに生活はあらゆる構成を失うのである。それは多くの小さな断片から作られ、それぞれたがいに分離し、全体としての感覚はみじんもみられない。個人はちょうど積木をもった子どものように、これらの断片をもってひとりぼっちにされている。しかしちがっているのは、子どもは家とはどんなものであるか知っており、したがってかれが遊んでいる小さな断片にも家の諸部分をみつけだすことができるのに反し、大人はその「断片」を手にしながら、「全体」の意味がわからないのである。かれは途方にくれ、不安になり、その小さな無意味な断片をみつめつづけているだけである。(pp.276-277)