アルベール・カミュ『異邦人』書評

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)


こないだ、自分と同じく多少「活字中毒気味」な人たちと朝まで飲んでいたのだけど、その中の一人が
アルベール・カミュ『異邦人』
のことを話題に出してきた。


自分が『異邦人』やら『ペスト』やらを読んだのは大学1〜2年生くらいのことで、もうあまり内容を覚えていなかったものだから、その彼に「あれは傑作です。今日帰ったら再読して下さい」と言われた。


そういう意味では影響されやすい自分は、蔵書の山の中からすでに持っている薄っぺらい文庫1冊を見つけ出すのが面倒で、近くの書店で早速もう1冊買ってくる。


その彼は、『異邦人』の最大の魅力は、「何を言っても無駄という状況でのあきらめの美学」だと言った。さて、読んでみた自分はどう思っただろうか?



言うまでもなく、この小説はカミュの思想の根幹をなす「不条理」を表現したものである。ちなみに不条理とは、



実存主義の用語で、人生に意義を見出す望みがないことをいい、絶望的な状況、限界状況を指す。」(広辞苑 *1



という意味である。


この小説の中で、主人公のムルソーは、友人に遺恨を抱いているという以外になんのつながりもないアラビア人を銃で殺してしまう。のちの法廷で殺した動機を問われ、


「焼けるような太陽の光のせい」


だと答えた。


ムルソーは本気でそう答えたのだが、それが本当であるか嘘であるかに関係なく、あらゆる物事に「合理的な意味」を要求する聴衆にとっては、それは失笑の対象でしかなかった。


しかし、ムルソーが(つまりカミュが)最も強く拒絶したのは、「人間の存在になんらかの意味を付与しようとすること」であり、同時に「意味にしがみつく人間」であった。


カミュはこう書いている。

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。

大多数の人間は、自分がやっていることになんらかの意味を見出さないと生きていけない。意味を見出し、なければ自分で勝手に作り出すのが人間だと言える。ところが、カミュはそうした意味すべてを全否定する。それが不条理というものだ。

ムルソーは、サルトルが巧みに指摘するように、たとえば「愛」と呼ばれるような一般的感情とは無縁の存在である。人は、つねに相手のことを考えているわけではなくとも、きれぎれの感情に抽象的統一を与えて、それを「愛」と呼ぶ。ムルソーは、このような意味づけをいっさい認めない。彼にとって重要なのは、現在のものであり、具体的なものだけだ。(文庫解説より)

これだけ読めば、虚無的で無力感を漂わせているような印象を与える。ところが真実は逆であった。

ムルソーは、否定的で虚無的な人間に見える。しかし彼はひとつの真理のために死ぬことを承諾したのだ。人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である、という命題は、到達点ではなくて出発点であることを知らなければならない。ムルソーはまさに、ある積極性を内に秘めた人間なのだ。(文庫解説より)

愛や正義といった「意味」で安心する(=思考停止する)ことを断固拒絶し、「人間はなぜ生きるのか」を問い続ける。不条理を生きるとはそういうことではないか。


そこで冒頭の話に戻るのだけど、その彼が言っていた「何を言っても無駄という状況でのあきらめの美学」という解釈は、たぶん不十分なものであって、そこにはもっと積極的な、妥協を許さない情熱のようなものがあると考えるべきじゃないのだろうか。


どこぞの国の首相がかつて「話せばわかる」とよく口にしていた。それは「話してみて実際に相手はわかってくれた」という客観的な事実があったから言ったのではなく、「話せばわかる」と「信仰する」ことによって、それ以上の煩雑さを回避して安心しようとしたに過ぎない。大衆に向けられる言説というものはすべて、こうした単純化の危険性が常につきまとう。


大衆に限らず、特定の相手に愛や運命を見出す(見出そうとする)のも、所詮は幻想に過ぎない。人生における意味だと自分が思い込んでいるものをすべて剥ぎ取った上でなお、「なぜ生きるか」を問うのが、哲学というものだろう。


世の中は意味であふれている。それは裏を返せば不安であふれていることと同義である。その不安を安易な意味でごまかさずに、立ち止まって考えてみる。


野矢茂樹は「哲学とは立ち止まって考える勇気だ」と言った。



本好きの人たちと本の話(そこから必然的に派生する人生の話)をしたおかげで、いろいろ勉強になった。
ちなみに『異邦人』の主人公ムルソーの名前は、フランス語の「死」(mort)と「太陽」(soleil)の合成語だそうである。


【その他に印象に残った箇所】
・判決が十七時にではなく二十時に言い渡されたという事実、判決が全く別のものであったかも知れぬという事実、判決が下着をとりかえる人間によって書かれたという事実、それがフランス人民(あるいはドイツ人民、あるいは中国人民)の名においてというようなあいまいな観念にもとづいているという事実、――こうしたすべては、このような決定から、多くの真面目さを、取り去るように思われた。それでも、そうして宣告がなされるや、その効果は、私が体を押しつけているこの壁の存在と同じほど、確実な、真面目なものになることを、私は認めざるをえなかった。(113頁)


・ひとはいつも、知らないものについては誇張した考えをもつものだ。ところが、実は、すべてがごく簡単なものだということを認めざるをえなかった。(115頁)


・結局において、ひとが慣れてしまえない考えなんてものはないのだ。(119頁)

*1:ちなみに、カミュ自身が認めている通り、カミュ実存主義者ではなく、不条理を「実存主義の用語」と考えた場合、混同が生じる点は注意を要する。