いま仏教の教義を学ぶことの意義
魚川祐司『仏教思想のゼロポイント:「悟り」とは何か』新潮社、2015年より
「ゴータマ・ブッダの教えは、現代日本人である私たちにとっても、「人間として正しく生きる道」であり得るのかどうか、ということである。
結論から言えば、そのように彼の教えを解釈することは難しい。何度も繰り返し述べているように、ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に「労働と生殖の放棄」を要求するものであるが、しかるに生殖は生き物が普遍的に求めるものであるし、労働は人間が社会を形成し、その生存を成り立たせ、関係の中で自己を実現するために不可欠のものであるからだ」(p.35)
「現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して「異性とは目も合わせないニートになれ」と求めているわけで、そうしたあり方のことを「人間として正しく生きる道」であると考える現代日本人は、控えめに言っても、さほどに多くはないだろうということである」(p.35)
「このようにゴータマ・ブッダの仏教を理解することによって、私はその価値を、貶めようとしているわけではない。むしろ話は全く逆で、彼の仏教を「人間として正しく生きる道」といった理解に回収してしまうことをやめた時に、はじめてその本当の価値は私たちに知られることになるし、また「仏教とは何か」という根本的な問題についても、正しい把握をすることが可能になるというのが、本書の基本的な立場である」(p.37)
「現代日本の仏教に関する言説の中には、例えばその縁起思想を私たちの知的枠組みにとって都合のいい形に切り取ることで、「仏教は科学的で合理的だ」と評価してみたり、あるいは戒律や慈悲の概念を取り上げて、「仏教の実践をすれば、健全で優しい人になれます」と、その処世術としての有効性を宣伝してみたりするものがしばしば見られる。
そうした言説が流行するのは、それによって仏教に興味をもったり、あるいは本当に「健全で優しく」なったりする人も存在するがゆえだろうから、そうした理解や評価を全面的に「悪い」ものとして非難するつもりはない。ただ、それはゴータマ・ブッダの仏教に対する適切な評価ではやはりないし、また、その思想のおいしいところを取り逃がし、仏教の危険であると同時に最も魅力的である部分を、隠蔽した理解でもあるとは思う」(pp.37-38)
「ここで私たちがしなければならないことは、本人自身も自覚していた、ゴータマ・ブッダのそのような「非人間的」な教の性質を、否定したり隠蔽したりすることではなく、また、「そんな非人間的な教えに意味はない」と、そのまま仏教について忘れてしまうことでもない。大切なことは、「では、そのような『世の流れに逆らう』実践を行ってまで、彼らが目指したことは何だったのか」ということを、私たちが再度徹底的に、考え直してみることである」(p.39)