「人間の愚劣さも崇高さも両方を知るべき」(上野千鶴子)

発情装置―エロスのシナリオ

上野千鶴子『発情装置:エロスのシナリオ』筑摩書房、1998年より。

 ※強調は引用者

援助交際」の女の子たちの現実をよく知っていそうに見える宮台くんの言い分は、そんなことしてると男にたかをくくるようになるよ、人生をみくびるようになるよ、というきわめてまっとうな説です。事実、彼女たちの相手は「たかをくく」られてもしかたのないみじめなオヤジたちですから、彼女たちの不幸は、ただ人間の愚劣さを他人よりすこし早く知った、という程度のことかもしれません。わたしは人間の愚劣さを知らないほうが幸福だ、という説には与しません。どのみち一生イノセントには生きられないのですし、子どもを人間の愚劣さから隔離しておくことができるとも思っていません。人間は愚劣なこともあれば崇高なこともある――必要なのはその両方を知ることです。(p.21)

 

彼女たちに必要なのは「たかをくくることのできない」他人との関係、「みくびることのできない」人生とのつきあい方です。そのための方法は、セックスを含む男女関係を若いときからふつうに持つことだ、という宮台くんのまっとうさは、ほとんど感動ものといっていいくらいです。つまり彼は十代の少女の身体を「使用禁止」にする中産階級の偽善をやめろ、と主張しているのです。(p.21)

 

 性と人格の一致 vs. 性と人格の分離の対立は、どちらもあまりに厳格に、つまりそれを考えついた男が定義したように、考えられています。両者の関係をもっとゆるやかに考えることはできないでしょうか。性と人格とのあいだには特権的な関係を前提する必要はなく、現実には性と人格との関係は連動していることもあればそうでないこともある、と。それはただ多様な性のあり方を認める、というにすぎません。それは多様な人格的関係のあり方が可能なことと同じです。だれかと性的な関係を持ったからといってそれに縛られる必要はないし、だれかに性的な欲望を持ったときにそれを抑える必要もありません。あとは相手がそれを受け入れてくれるかどうか、という関係の問題ですから。いやがる相手に関係を強要すれば嫌われたり、犯罪になることもある、というだけのことです。性をとくべつに理想化することもないかわりに、嫌悪することもありません。性には、人格的関係と同様、愛から憎悪まで、崇高から愚劣まで、あらゆるスペクトラムがあることは歴史が示しています。あとはわたしがそのうちのどれをキモチいいと思うか、という選択の問題ではないでしょうか。少なくともわたし自身は、自分の人生の限られた時間やエネルギーを、憎悪や愚劣な関係のためには使いたくない、と思うだけです。(p.29)