孤独、失恋、離婚

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』NHKブックス、2001年より

「離婚を「夫婦関係がどうしようもなくなった場合の最悪の選択」と考えるのでなく、「運悪く夫婦のマッチングが悪かった場合に、それに固執せず、新たに仕切り直すための前向きな選択」と受け止めることが、「自分で選ぶ人生」の不可欠の前提として、当然認められなくてはならない、と思うのです」(p.75)

「「このままでは夫婦はだめになるだけ」とわかりつつ、ずるずると関係を続ける夫婦がまだまだ少なくない中、離婚された方は、お互いの幸福のためにさまざまなプレッシャーに負けず、前向きな選択をなされたのです。むしろ自信を持っていいくらいです。もしチャンスがあれば、再度の離婚を恐れず、結婚にチャレンジしていただきたいと思います」(p.75)

「また、相手から一方的に離婚を宣告されたとしても、自信を失う必要はありません。最近、熟年夫婦の離婚が増えているのは周知の通りですが、先日ある結婚相談所にうかがったところ、熟年離婚後、女性のほうは積極的にお見合いをし次のパートナーを探す方が多いのに対して、突然離婚を突きつけられた男性の側は、自信を喪失し、何もせずにいる人が少なくない、とのこと。「誰にでも人生を仕切り直す権利はあり、今回はたまたま、自分のパートナーがその権利を行使しただけのこと」と考えることが大切でしょう」(pp.75-76)

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「ほんとうの意味で自分を大切にできる恋愛をするためには、まず、“ひとりじゃいられない症候群”から脱却し、ひとりになること、孤独であることを引き受けなくてはなりません。ひとりになって、自分自身の心と深く対話できる人だけが、他者とも(したがって異性とも)深く対話することができるということを身をもって知らなくてはなりません。多くの若者は、そうした恋愛を体験したあとはじめて、さみしさや不安を打ち消すための恋愛が、結局、双方を傷つけるだけに終始しがちなものであったということに気づくのです」(pp.85-86)

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「最も肝心なのは、ひとりでいる自分を決して否定しないことです。人間関係のしがらみに捕らわれず、自分の人生を生きることを選んだ。そんな自分をそのまま受け入れ、認めて、肯定的に捕らえることです。そしてもう一つは、ひとりでいることが、多少つらかったり、さみしかったとしても、すぐにもとに戻ろうとはせず、しばらくじっと、そこにとどまることです。これまでいつも多くの人間関係に囲まれて生きてきて、それに慣れっこになってしまっていると、なかなかその価値観から脱け出ることができません。それを物差しにして、今の自分を捕らえてしまいます」(pp.243-244)

「孤独であることの不安やさみしさに耐え、じっとそこにとどまっていると、次第に、孤独であることの新たな意義が見えてきます。新しい感覚が生まれてきます」(p.244)

「孤独を癒すことができるのは、人とのつながりではない。孤独を癒すことのできる、ただ、一つの道。それは、孤独から抜け出すことではなく、より深く、より深く、その孤独を深めていくことだ。他者とのつながりをきっぱりと断ち切って、自分の孤独を、深さの方向へ、深さの方向へと、深めていくこと。そのことによってしか孤独は癒されず、表面的な人間関係はさらに孤独を強化するだけだ。」(p.254)

「良き反面教師」としての太平洋戦争

あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)

保阪正康『あの戦争は何だったのか:大人のための歴史教科書』新潮新書、2005年より

(下線は引用者)

「あの戦争では「一億総特攻」とか「国民の血の最後の一滴まで戦う」などといったスローガンが指導者によって叫ばれた。馬鹿なことを言いなさんな、この国の人びとをそんな無責任な言辞を弄して駆りたてる権利は、「歴史上」はあなたたちに与えられていないと、私は言いたいのだ。いやあれは士気を鼓舞するため、と言うのなら、そんなことでしか士気を鼓舞できないなら、それは自身の歴史観の貧困さを語っているだけではないか。」(p.240)

 

「太平洋戦争を正邪で見るのではなく、この戦争のプロセスにひそんでいるこの国の体質を問い、私たちの社会観、人生観の不透明な部分に切りこんでみようというのが本書を著した理由である。あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。そのことを見つめてみたいと私は思っているのだ。その何かは戦争というプロジェクトだけではなく、戦後社会にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか。

 戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。対症療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入りこんでいく。現実を冷静にみないで、願望や期待をすぐに事実に置きかえてしまう。太平洋戦争は今なお私たちにとって“良き反面教師”なのである。」(pp.240-241)

安保論争

安保論争 (ちくま新書)

細谷雄一『安保論争』ちくま新書、2016年より

「安保関連法に反対する人々は、平和を求めて、戦争に反対している。安保関連法を成立させた安倍政権もまた、同じように、平和を求めて、戦争に反対している。どちらかが間違っているのだろうか。あるいは、どちらも間違っていないのだろうか。

 前者は、今回の法律を成立させれば、アメリカが将来に行う戦争に日本が巻き込まれて、国民の安全が脅かされると懸念している。他方で、後者は現状の安保法制では十分に国民の生命を守ることができず、状況が悪化している東アジアの安全保障環境下で平和と安定のために日本が責任ある役割を担うことができないと考えている。

 なんと奇妙なことであろうか。安保関連法に反対する人も、賛成する人も、同じ目的を抱いている。ところが今回の安保関連法をめぐる論争は、双方がともに十分に相手の論理を理解することができない中で、相手を侮蔑し、批判している。実質的な対話が欠如している状態が続いているのだ。同じ目的を共有しながら、これほどまでに激しい反目が続いている。両者の間にそのような溝が横たわっているのは現在の日本を取り巻く安全保障環境をめぐる認識が異なるからである。まずは、その溝が何なのかを理解して、その溝を埋めない限り、不毛な論争が持続するであろう。」(pp.31-32)

「苦」に弱い現代社会

生きる意味 (岩波新書)

上田紀行『生きる意味』岩波新書、2005年より

「真に豊かな社会とは、「これだけ豊かになったのだからこの程度の「苦」ではびくともしないよ」と胸を張れる社会であろう。

 ところが、私たちは到底そう思えない。それどころか、「苦」に直面した中高年は若者と同じく、自分のことを「犠牲者」であり「被害者」だと思ってしまう。もっとも、その認知は必ずしも思い込みだけだとは言えないのかもしれない。「犠牲者」に対しては誰も手を差しのべようとはしないし、社会からは実際に「犠牲者」であるかのように扱われるからである。

 これだけ豊かであるにもかかわらず、自分のことを「被害者」だと思わされてしまう社会。自分のことを「犠牲者」だと思わされてしまう社会。そんな社会が「生きる意味」において豊かな社会でないことは火を見るよりも明らかであろう。」(p.12)

仏教の「絶対にごまかしてはならないこと」

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント:「悟り」とは何か』新潮社、2015年より

「ゴータマ・ブッダの教えは、現代日本人である私たちにとっても、「人間として正しく生きる道」であり得るのかどうか、ということである。

 結論から言えば、そのように彼の教えを解釈することは難しい。何度も繰り返し述べているように、ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に「労働と生殖の放棄」を要求するものであるが、しかるに生殖は生き物が普遍的に求めるところであるし、労働は人間が社会を形成し、その生存を成り立たせ、関係の中で自己を実現するために不可欠のものであるからだ。」(p.35)

 

「現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して「異性とは目も合わせないニートになれ」と求めているわけで、そうしたあり方のことを「人間として正しく生きる道」であると考える現代日本人は、控えめに言っても、さほどに多くはないだろうということである。」(p.35)

 

「このようにゴータマ・ブッダの仏教を理解することによって、私はその価値を、貶めようとしているわけではない。むしろ話は全く逆で、彼の仏教を「人間として正しく生きる道」といった理解に回収してしまうことをやめた時に、はじめてその本当の価値は私たちに知られることになるし、また「仏教とは何か」という根本的な問題についても、正しい把握をすることが可能になるというのが、本書の基本的な立場である。」(p.37)

 

現代日本の仏教に関する言説の中には、例えばその縁起思想を私たちの知的枠組みにとって都合のいい形に切り取ることで、「仏教は科学的で合理的だ」と評価してみたり、あるいは戒律や慈悲の概念を取り上げて、「仏教の実践をすれば、健全で優しい人になれます」と、その処世術としての有効性を宣伝してみたりするものがしばしば見られる。

 そうした言説が流行するのは、それによって仏教に興味をもったり、あるいは本当に「健全で優しく」なったりする人も存在するがゆえだろうから、そうした理解や評価を全面的に「悪い」ものとして非難するつもりはない。ただ、それはゴータマ・ブッダの仏教に対する適切な評価ではやはりないし、また、その思想のおいしいところを取り逃し、仏教の危険であると同時に最も魅力的である部分を、隠蔽した理解でもあるとは思う。」(pp.37-38)

 

「そもそも、「科学性」や「合理性」がお好みなら、仏教の本など捨てて、自然科学の本を読めばよいし、「処世術」を知りたいのなら、二千五百年前のインド人が語ったことより、現代日本の状況に即応した自己啓発書でも読むほうが、ずっと参考になるだろう。先ほど述べたように、俗世の処世が仏教の問題なら、それが数千年の時間と数千キロの距離を越えて、現代日本にまで伝わったはずはないし、科学性と合理性のみが仏教の特長であるならば、その点に関しては近代科学のほうがずっと優れているのだから、いまさら仏教を学ぶ必要など存在しない。仏教に「現代思想」としての価値がまだあるとすれば、それはこうした現代の「世の流れ」に沿った言説とは、全く逆向きのところにこそ存するはずだ。」(pp.38-39)

 

「ここで私たちがしなければならないことは、本人自身も自覚していた、ゴータマ・ブッダのそのような「非人間的」な教の性質を、否定したり隠蔽したりすることではなく、また、「そんな非人間的な教えに意味はない」と、そのまま仏教について忘れてしまうことでもない。大切なことは、「では、そのような『世の流れに逆らう』実践を行ってまで、彼らが目指したことは何だったのか」ということを、私たちが再度徹底的に、考え直してみることである。」(p.39)

「プレッシャーのおかげで生きている意味を感じられる」(イチロー)

イチローUSA語録 (集英社新書)

デイヴィッド・シールズ編『イチローUSA語録』(永井淳/戸田裕之訳)集英社新書、2001年より

「異郷シアトルで暮すことに不安を感じるかときかれて、イチローはこう答えた。

『まだ英語も話せないし、プレッシャーは大きいです。ものの考え方や習慣が違うので、気をつかわなければならないこと、予想外のこともたくさんあります。しかしストレスの原因となることがあるとしても、それはそれでおもしろいと思います。ぼくが生きていることの意味を感じられるのは、そうしたことのおかげではないでしょうか。』」(p.26)

Asked if he feels anxiety about the prospect of living abroad in Seattle, Ichiro answered, "I still can't speak English, and there's a lot of pressure. There are a lot of things to worry about, unexpected things, because the mentality and the manners are different. Even if there are things that become somewhat stressful, I think they're interesting. Isn't it because of those things that I am able to be struck by the significance of being alive?"

ICHIRO AND THE INTERVIEW: ATTACK THE PINNACLE!, April 2001

「太平洋戦争開戦直前の日米戦力比は1対10」

あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)

「太平洋戦争開戦直前の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、その総合力は何と一対一〇であったという。米国を相手に戦争をするに当って、首相、陸相東條英機が、その国力差、戦力比の分析に、いかに甘い考えを持っていたかが今では明らかになっている。

「一対一〇」という数字自体もだいぶ身びいきがなされて出された数字だったが、データをもとに軍事課では、戦争開始以降の日本の潜在的な国力、また太平洋にすぐに動員できる地の利も考慮すれば、「一対四」が妥当な数字だと判断し、改めて東條に報告がなされた。東條はその数字を、「物理的な戦力比が一対四なら、日本は人の精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、そう結論づけてしまった……。」(p.55)