近現代史の忘却

あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)

保阪正康『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書』新潮新書、2005年より

(下線はすべて引用者)

「現在、私はある私立大学の社会学部などで講座をもっているのだが、学生たちの多くがほとんど日本の近現代史を知らないことに驚かされる。聞くと、高校で日本史は学ばなかった者もいる。カリキュラムでは日本史は必修科目ではなく、選択科目になっているのだそうで、みな複雑な日本の近現代史は避けて世界史を選ぶのだとか。これではアジアの国々から「日本は侵略をしたのだから謝罪しろ」と政治的プロパガンダを伴って言われれば、相手が言うなりのまま謝罪するしかない。戦争のことをまるで知らないのだから。相手の言うことを理解した上できちんと反論する、あるいは共通の基盤をつくる、そうしたディスカッションができなくなっている。」(p.5)

 

「本当に真面目に平和ということを考えるならば、戦争を知らなければ決して語れないだろう。だが、戦争の内実を知ろうとしなかった。日本という国は、あれだけの戦争を体験しながら、戦争を知ることに不勉強で、不熱心。日本社会全体が、戦争という歴史を忘却していくことがひとつの進歩のように思い込んでいるような気さえする。国民的な性格の弱さ、狡さと言い換えてもいいかもしれない。日本人は戦争を知ることから逃げてきたのだ。」(pp.7-8)

 

「現代の大衆化した社会の中で、正確な歴史を検証しようと試みるのは難しいことかもしれない。歴史を歴史として提示しようとすればするほど、必ず「侵略の歴史を前提にしろ」とか「自虐史観で語るな」などといった声が湧き上がる。しかし戦争というのは、善いとか悪いとか単純な二元論だけで済まされる代物ではない。あの戦争にはどういう意味があったのか、何のために三一〇万人もの日本人が死んだのか、きちんと見据えなければならない。」(pp.8-9)

 

歴史を歴史に返せば、まず単純に「人はどう生きたか」を確認しようじゃないかということに至る。そしてそれらを普遍化し、より緻密に見て問題の本質を見出すこと。その上で「あの戦争は何を意味して、どうして負けたのか、どういう構造の中でどういうことが起こったのか」――、本書の目的は、それらを明確にすることである。」(p.9)

 

「自尊感情の衰退」(小谷敏)

ジェラシーが支配する国

「自分を苦しめている者にストレートに怒りをぶつけることのできる人間は、誰かが弱い者をいたぶっているのをみて、カタルシスを覚えたりはしないからです。自分の誇りを踏みにじられても怒ることをしない、大人しい、そしてふがいない日本人の増大が、本書が論じてきたさまざまな現象の背後にはありそうです。」(pp.279-280)

「法律リテラシー」の必要性(敷金・職質・保証人)

敷金・職質・保証人―知らないあなたがはめられる - 自衛のための「法律リテラシ―」を備えよ - (ワニブックスPLUS新書)

烏賀陽弘道『敷金・職質・保証人――知らないあなたがはめられる 自衛のための「法律リテラシー」を備えよ』ワニブックスPLUS新書、2018年より

「「市民が知らないままでいる」状態ほど、制限のない力の行使を望む人たちに好都合な環境はありません。」(p.285)

 

「「敷金」で言えば、「敷金は退去時に入居者に返すのが原則」と借り主が知らないでいてくれる方が、貸主にはお金が入る。「職質」で言えば、市民が「職質を断っても法律違反ではない」「裁判所の令状がない限り、身体検査やカバン検査は断れる」「警察署に行く義務もない」と知らないでいてくれる方が、職務質問はスムーズにはかどり、警察の摘発数(=評価対象になる業績)は増えます。「警察官が作った供述調書に署名・捺印すると、もう撤回できない」ということを知っていれば、署名・捺印を拒否する市民が増えることでしょう。しかし、それは警察にとっては「業務がやりにくくなる要因」でしかありません。貸主にせよ警察官にせよ、相手が無知で、何事もハイハイと自分の言う通りに従ってくれるに越したことはないのです。」(pp.285-286)

 

「そうした人々には「できるだけ市民は知らずにいてほしい」と願う動機が生まれます。文字通りにそう意識していなくても、真面目に職務を遂行しようとすればするほど、妨害要因を排除したいという動機を捨てることはできません。少なくとも、積極的には相手に告知しないでしょう。つまり現代日本では「無知は利用される」のです。」(p.286)

逆風は快楽である(上野千鶴子)

上野千鶴子のサバイバル語録

上野千鶴子上野千鶴子のサバイバル語録』文藝春秋、2016年より

 「逆風は快楽である

 「逆風に強い」とも言われたことがある。

 ひんしゅくは買うもの、とばかり、他人のいやがることをしてバッシングを受けると、来た来た、来た、と身構える。全身の神経が狩人のようにとぎすまされ、いや、サッカーのゴールキーパーのようにあらゆる方向へアンテナが張りめぐらされ、さあどこからでもかかって来い、という油断のない待機モードになる。テンションが上がり、ドーパミンが脳内で放出される。こういう快楽を味わうには、どんなドラッグもいらない。 『ひとりの午後に』」(p.1)

「巨大なる凡庸」としてのテレビ

ジェラシーが支配する国

 

「スイッチを入れれば誰でも簡単にテレビを楽しむことができます。テレビは、幼児から老人に至るまでのすべての人たちが理解することができ、共感することができるものを提示しなければならないのです。万人に理解と共感が可能なものとはすなわち凡庸なものにほかなりません。凡庸化は、テレビの宿命であるといえます。BPOの「巨大なる凡庸」ということばは、テレビの本質を鋭くいい当てています。」(p.215)

 

現代日本は高度な知識社会であり、誰もが何かの専門家であるような社会です。しかしある領域のなかで高度な達成を求められれば、他の領域に目をやる余裕は失われます。あらゆる専門領域が、極めて高度な水準に達していますから、すべての領域を理解し、全体を見通すことなど、誰にとってもできることではありません。たとえば自らの専門領域においては高度な研究を行っている物理学者であっても、法律の領域においては素人=大衆の一人でしかないのです。自分には理解することのできない部分が肥大化した社会は、不安であり、苛立たしいものでもあります。理解不能なものを消し去りたいという、「存在論的不安」に根ざした欲望が、凡庸化を推し進める強大な力となっています。」(pp.215-216)

ルサンチマン(ressentiment)

道徳の系譜 (岩波文庫)

フリードリッヒ・ニーチェ道徳の系譜岩波文庫、1950年、pp.95-97より

「苦しませることが最高度の快楽を与えるからであり、被害者が損失ならびに損失に伴う不快を帳消しにするほどの異常な満足感を味わうからである。苦しませること――それは一つの真の祝祭であり、前述のように、債権者の階級や社会的地位に反比例して、ますます高く評価されるものである。」 

「苦しむのを見ることは快適である。苦しませることは更にいっそう快適である――これは一つの冷酷な命題だ。しかも一つの古い、力強い、人間的な、余りに人間的な命題だ」

学問と宗教

宗教に関心がなければいけないのか (ちくま新書)

小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』ちくま新書、2016年

「『法華経』に「提婆達多品(だいばだったぼん)」というのがあり、そこに、竜女の女人成仏というのが書かれている。これは、竜王の娘の竜女というから、人間ではないのだが、女人のままでは成仏できないというので、「変成男子(へんじょうなんし)」つまり男体になってから成仏するという。成仏するのだから良さそうなものだが、男子にならなければ成仏できないというのは女性差別だというので、「提婆達多品」はもともとの『法華経』にはなく、あとからつけ加えられたものだ、という論文を、中学生の頃に『フェミニスト』という雑誌で読んだことがある。しかしこれはバカげた話で、『法華経』は仏陀以後五百年はたって成立したものだし、キリスト教や仏教が女性差別的なら捨てればいいだけのことで、日蓮宗あたりの熱心な信者でなければ意味をなさない。」(100頁)

 

「自分の思想とあわないところが、自分が信奉するものの中にある、と言ってあわてるのは、私などにはよく分からない話で、「ああそういう部分もありますね」と言えばいいではないか、と思うのである。」(101頁)

 

「これは宗教に限らない。たとえば、一九七九年に中越戦争が起きた時、社会主義国同士の戦争だというので社会主義者がショックを受けたというが、そこまで社会主義に幻想を抱いていたというのが驚きだとはいえ、「悪い社会主義国もある」とは思えないらしい。あるいは呉智英さんが『読書家の新技術』で、マルクスは英国のインド支配を正当化した、と指摘していたが、マルクスだってそれくらいするだろう、と思う。マルクスが間違うはずがない、などと言う人もいるらしいし、マックス・ヴェーバーを批判されて猛り狂って三冊くらい人格攻撃の本を出した折原浩のような人もいて、こうなると社会学でもなければ学問でもない、立派な宗教である。」(101頁)