社会科学の軍事的関与

文化と外交 - パブリック・ディプロマシーの時代 (中公新書)

渡辺靖『文化と外交:パブリック・ディプロマシーの時代』中公新書、2011年より

(下線はすべて引用者)

「二〇〇一年の同時多発テロ事件後、アメリカ中央情報局(CIA)は(中略)奨学金制度を通して、文化人類学や地域研究を専攻する学生の確保に乗り出しており、学会の内外でその是非をめぐる論争が繰り広げられている」(p.125)

 

アメリカ陸軍は、文化人類学を中心とする社会科学者を軍に同行させて情報収集などに協力させる「人的形勢システム(Human Terrain System, HTS)」の運用を二〇〇六年から開始している。これは文化人類学のフィールドワークの手法を利用しながら、イラクアフガニスタンなどのテロ多発地域で「なぜ子どもたちは米軍に石を投げつけるのか」「どこに新たな道路をつくるのがよいか」「米軍はどの部族と話をするのがよいか」などと地元住民に問うことで人的情報や地域情報を入手し、現地におけるオペレーションを円滑に進めようとするプロジェクトである」(pp.125-126)

 

「こうした政治的関与――いわゆる「応用的実践」――に対しては、学問の中立性や客観性に反するという批判が絶えない一方、フィールドにおける現実的諸問題に対して何らかのコミットメントを拒否することは現行システムの黙認にすぎないという反論もある。ここでは倫理的な是非を問うことよりも、文化国際主義の象徴ともいえる文化人類学でさえ、ナショナルな政策論のなかに包摂されてきた事実を指摘するにとどめたい」(pp.126-127)

「異文化交流が親しみをもたらすとは限らない」(フルブライト)

文化と外交 - パブリック・ディプロマシーの時代 (中公新書)

渡辺靖『文化と外交:パブリック・ディプロマシーの時代』中公新書、2011年より

「イギリスのローズ奨学金をモデルにフルブライト奨学金を創設したアメリカのJ・ウィリアム・フルブライト上院議員は、一九六一年、アメリ連邦議会上院で次のように証言している。

(中略)

『私は教育交流プログラムが必ずしも人びとの間に親しみを生み出すとは思っていません。しかし、それは本質的な問題ではありません。もしも同じ人間としての感覚――よその国に住んでいるのは、私たちが恐れるようなドグマではなく、同じ人間であるということ――を心で感じとることができれば十分だと思っています。自分たちの国の人間と同じく、喜びや悲しみ、残酷さや優しさを持った同じ人間であるということが』」(pp.24-25)

博士論文と孤独

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

「大学院生時代、特に博士後期課程やオーバードクター(博士課程を終えても定職にありつけない状態)の時代に、論文がうまく書けないときなど、同じ世代の友人たちはみんな頑張って働いて、結婚したり子どもをつくったりしているのに、自分はいったい何をしているんだと、取り残されたような気持ちになります。何も成果があげられないまま、無意味な時間だけがただすぎていく。そんな体験を、多くの文科系大学院生たちは味わったことがあるはずで、少なからずの人が否定的感情にうちひしがれてその道をやめていきます」(p.133)

 

「しかし、孤独への資質がある人間にとって、そんな感情に支配されるのは、せいぜい最初のうちだけ。社会との接点を持たずに、ひたすら自分の内面世界を探求する――そんな今思えば、夢のようにぜいたくな時間の魔力に取り憑かれていくはずです。

 私の場合、博士論文執筆最中の二年間がそうした生活のピーク。朝、一一時ごろに寝て、夕方四時か五時ごろに起きる。それ以外の時間は――食事と、トイレと、週に一度の入浴時間を除いて――すべて思索と論文執筆のために費やし、その世界に純粋に没頭することができました。

 そうした生活を始めた最初のころは、たしかに苦痛でしたが、毎日そんな生活をしていると、やはりだんだん慣れてきます」(p.134)

 

「たとえば、博士論文の執筆だとか、ある作品を完成させるだとかのために、「自分の世界」に没頭する必要が生じたとき私たちはみずからあえて、積極的に社会から離脱し、ドロップアウトします。「共有された時間の流れ」からみずから進んで離脱していくのです。孤独であることを選ぶ、というのは、ある意味では、この「共有された時間の流れ」からの積極的な離脱を意味しています」(p.135)

 

「博士論文に取り組んでいるときの私の状態は、ちょうどそんな感じで、社会の流れや、周囲の人々の気持ちに左右されることなく、ただただじっと、自分の“存在の核”の近くにいる。そこから離れず、ずっとそこの側にいる。ずっとそこに触れている。そんな体験の積み重ねで、たしかにとても過酷でつらかったけれども、ある意味では、これ以上ないほど濃密な、充実した時間の連続でした。時間の“濃さ”という点では、こんなに充実していた時はあまりない。それに比べれば、最近のやたら忙しく、外を飛び回っている時間の何と“薄い”ことか……。」(p.136)

 

「もう一つ、大学院生時代や、大学教員になってからもまだ講演依頼や執筆依頼がそれほど多くはなかった駆け出しのころ(といっても、今でも私はまだ三八歳で、じゅうぶん駆け出しですが)実感したのは、週末には人でごった返しているデパートや公園、コーヒーショップ、映画館などに、平日の昼間に行くことの快感! です」(p.137)

 

「特に忘れられないのは――私が院生時代をすごした筑波学園都市には、なかなか素敵な公園がいくつかあり、土・日は結構人で埋まっていたのですが――よく晴れたウィークデーの午後に、それほど混み合っていない公園に行って昼寝でもしているときなど、「みんながあくせく働いている平日の昼間に、こんなのんびりできるなんて、なんて俺はしあわせだー」と、のほほーんとした気分で、人生の勝利者の気持ちを味わったものです。今の日本、たとえ貧乏でも、自由な時間さえあれば、そこそこ優雅な生活はできるのです」(p.137)

「忙しすぎる=スケジュール管理に失敗した証」

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

「「忙しい」こと、とりわけ忙しすぎることは、決してよいことではなく、スケジュール管理に失敗した証として、むしろ、恥じるべきことなのです」(p.88)

「私はあえて断言しますが、忙しいこと、人づきあいが多いことなどは、どちらかというと“浅い”人生を表すものとしてあまり好まれなくなる時代が、もうしばらくすると、やってきます。“多さ” “広さ” “速さ”といった物差しは、人生の価値の尺度としてどんどん見放されていき、むしろ、人生の“浅さ”を示すものと受け取られるようになるでしょう。そうした、水平次元の価値尺度は急速に価値の下落を落としていくはずです」(p.88)

「それに変わって登場するのが“深さ”の次元です。そして、“深さ”の次元が人生の価値尺度として重要視されるとき、不可欠となるのが、孤独になる能力、充実した孤独、豊かな孤独をエンジョイできる能力です」(p.88)

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「孤独を深めることができた人、それゆえに、独自の精神世界を展開しえている人にとって、瑣末な人間関係に気を費やして疲れ果ててしまうことは、耐えがたい、愚かな行為にほかなりません。事務的な仕事やさまざまな交渉事に人生の大半を費やすことは、そんな人から見れば、もはや死んでいるに等しい。生きていることにはならないのです」(p.129)

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「もっと仕事をしたい、活躍したい、と思えば、どうしても、生活のスピードは速くなってきます。これは私たちの自我にとっては、有能感を与えて快適です。しかし、あまりにそれがすぎると、私たちの魂がないがしろにされ、息苦しくなってきます。魂は、必ずしも社会で定められた共通の時間に適合しない、固有のリズムを持っているからです。

 したがって、心全体のバランスを取るためには、自我の欲望を満たしながら、魂のリズムですごす時間を確保することが大切。そしてそのためには、ある程度の時間、社会から――ということはつまり、この社会における合意された時間から――“離脱”することが必要になってきます。魂の渇望に耳を傾けるための時間と空間を用意しなければ、そのうち、恐ろしい逆襲にあうことでしょう」(pp.140-141)

 

ゲシュタルトの祈り

わたしはわたしのことをやり、あなたはあなたのことをやる。

わたしはあなたの期待に応えるために、この世にいるわけではない。

あなたはわたしの期待に応えるために、この世にいるわけではない。

あなたはあなた、わたしはわたし。

もし偶然にお互いが出会えれば、それは素晴らしいこと。

もし出会わなければ、それはそれで仕方がないこと。(pp.98-99)

孤独、失恋、離婚

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』NHKブックス、2001年より

「離婚を「夫婦関係がどうしようもなくなった場合の最悪の選択」と考えるのでなく、「運悪く夫婦のマッチングが悪かった場合に、それに固執せず、新たに仕切り直すための前向きな選択」と受け止めることが、「自分で選ぶ人生」の不可欠の前提として、当然認められなくてはならない、と思うのです」(p.75)

「「このままでは夫婦はだめになるだけ」とわかりつつ、ずるずると関係を続ける夫婦がまだまだ少なくない中、離婚された方は、お互いの幸福のためにさまざまなプレッシャーに負けず、前向きな選択をなされたのです。むしろ自信を持っていいくらいです。もしチャンスがあれば、再度の離婚を恐れず、結婚にチャレンジしていただきたいと思います」(p.75)

「また、相手から一方的に離婚を宣告されたとしても、自信を失う必要はありません。最近、熟年夫婦の離婚が増えているのは周知の通りですが、先日ある結婚相談所にうかがったところ、熟年離婚後、女性のほうは積極的にお見合いをし次のパートナーを探す方が多いのに対して、突然離婚を突きつけられた男性の側は、自信を喪失し、何もせずにいる人が少なくない、とのこと。「誰にでも人生を仕切り直す権利はあり、今回はたまたま、自分のパートナーがその権利を行使しただけのこと」と考えることが大切でしょう」(pp.75-76)

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「ほんとうの意味で自分を大切にできる恋愛をするためには、まず、“ひとりじゃいられない症候群”から脱却し、ひとりになること、孤独であることを引き受けなくてはなりません。ひとりになって、自分自身の心と深く対話できる人だけが、他者とも(したがって異性とも)深く対話することができるということを身をもって知らなくてはなりません。多くの若者は、そうした恋愛を体験したあとはじめて、さみしさや不安を打ち消すための恋愛が、結局、双方を傷つけるだけに終始しがちなものであったということに気づくのです」(pp.85-86)

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「最も肝心なのは、ひとりでいる自分を決して否定しないことです。人間関係のしがらみに捕らわれず、自分の人生を生きることを選んだ。そんな自分をそのまま受け入れ、認めて、肯定的に捕らえることです。そしてもう一つは、ひとりでいることが、多少つらかったり、さみしかったとしても、すぐにもとに戻ろうとはせず、しばらくじっと、そこにとどまることです。これまでいつも多くの人間関係に囲まれて生きてきて、それに慣れっこになってしまっていると、なかなかその価値観から脱け出ることができません。それを物差しにして、今の自分を捕らえてしまいます」(pp.243-244)

「孤独であることの不安やさみしさに耐え、じっとそこにとどまっていると、次第に、孤独であることの新たな意義が見えてきます。新しい感覚が生まれてきます」(p.244)

「孤独を癒すことができるのは、人とのつながりではない。孤独を癒すことのできる、ただ、一つの道。それは、孤独から抜け出すことではなく、より深く、より深く、その孤独を深めていくことだ。他者とのつながりをきっぱりと断ち切って、自分の孤独を、深さの方向へ、深さの方向へと、深めていくこと。そのことによってしか孤独は癒されず、表面的な人間関係はさらに孤独を強化するだけだ。」(p.254)

「良き反面教師」としての太平洋戦争

あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)

保阪正康『あの戦争は何だったのか:大人のための歴史教科書』新潮新書、2005年より

(下線は引用者)

「あの戦争では「一億総特攻」とか「国民の血の最後の一滴まで戦う」などといったスローガンが指導者によって叫ばれた。馬鹿なことを言いなさんな、この国の人びとをそんな無責任な言辞を弄して駆りたてる権利は、「歴史上」はあなたたちに与えられていないと、私は言いたいのだ。いやあれは士気を鼓舞するため、と言うのなら、そんなことでしか士気を鼓舞できないなら、それは自身の歴史観の貧困さを語っているだけではないか。」(p.240)

 

「太平洋戦争を正邪で見るのではなく、この戦争のプロセスにひそんでいるこの国の体質を問い、私たちの社会観、人生観の不透明な部分に切りこんでみようというのが本書を著した理由である。あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。そのことを見つめてみたいと私は思っているのだ。その何かは戦争というプロジェクトだけではなく、戦後社会にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか。

 戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。対症療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入りこんでいく。現実を冷静にみないで、願望や期待をすぐに事実に置きかえてしまう。太平洋戦争は今なお私たちにとって“良き反面教師”なのである。」(pp.240-241)

安保論争

安保論争 (ちくま新書)

細谷雄一『安保論争』ちくま新書、2016年より

「安保関連法に反対する人々は、平和を求めて、戦争に反対している。安保関連法を成立させた安倍政権もまた、同じように、平和を求めて、戦争に反対している。どちらかが間違っているのだろうか。あるいは、どちらも間違っていないのだろうか。

 前者は、今回の法律を成立させれば、アメリカが将来に行う戦争に日本が巻き込まれて、国民の安全が脅かされると懸念している。他方で、後者は現状の安保法制では十分に国民の生命を守ることができず、状況が悪化している東アジアの安全保障環境下で平和と安定のために日本が責任ある役割を担うことができないと考えている。

 なんと奇妙なことであろうか。安保関連法に反対する人も、賛成する人も、同じ目的を抱いている。ところが今回の安保関連法をめぐる論争は、双方がともに十分に相手の論理を理解することができない中で、相手を侮蔑し、批判している。実質的な対話が欠如している状態が続いているのだ。同じ目的を共有しながら、これほどまでに激しい反目が続いている。両者の間にそのような溝が横たわっているのは現在の日本を取り巻く安全保障環境をめぐる認識が異なるからである。まずは、その溝が何なのかを理解して、その溝を埋めない限り、不毛な論争が持続するであろう。」(pp.31-32)