障害者殺しの思想

【増補新装版】障害者殺しの思想

横田弘『障害者殺しの思想【増補新装版】』現代書館、2015年より。

 

 高度経済成長が謳われている時は金に任せて巨大コロニーを造り上げ、生産力の可能な「家庭」を守るために次々に障害者を送り込み、ひとたび不況、インフレが起れば「福祉見直し論」をブチ上げ、僅かばかりの手当まで打ち切る「福祉政策」、障害者が街のなかで生きることに動物的嫌悪感を懐き、車イスのバス乗車をはじめ、自分達の「労働」と「生活」を守る為には、障害者の切実な要求をも抑圧して行こうとする労働者達。障害者児の存在を己れの恥とし、己れ自身で殺していく親達。障害者の存在を異形、異質の物としてのみ捉え、隣人として、また、仲間として捉えることのできない地域の住民たち。そうした健全者社会の在り方すべてが、障害者を、そして私を殺していくのである。(p.9)

「知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多い」

 

アルジャーノンに花束を〔新版〕

ダニエル・キイスアルジャーノンに花束を[新版]』ハヤカワ文庫、2015年より。

 

 この小説に出てくるあの光景、皿を落として割ってしまった知的障害のある給仕を食堂(ダイナー)の客たちがあざわらったとき、チャーリィが激昂したあの場面を思い出していただければ、私があのような残酷で無情なひとびとについてどう感じているか、おわかりいただけると思います。知能というものは、テストの点数だけではありません。

 他人に対して思いやりをもつ能力がなければ、そんな知能など空しいものです。人間のこの特性を欠いているひとびとは、残忍な嘲笑と空威張りの仮面のかげに隠れるものです。(p.4)

 

 チャーリィはこう述べている。「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです……これをひとつの仮説として示しましょう。すなわち、愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこすものである。つまりですねえ、自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて、それ自体に関与するだけの心、人間関係の排除へと向かう心というものは、暴力と苦痛にしかつながらないということ」(p.8)

 

 おそらく彼はこう示唆したいのだろう。つまり、知識の探求にくわえて、われわれは家庭でも学校でも、共感する心というものを教えるべきだと。われわれの子供たちに、他人の目で見、感じる心を育むように教え、他人を思いやるように導いてやるべきだと。自分たちの家族や友人ばかりではなく――それだったらしごく容易だ――異なる国々の、さまざまな種族の、宗教の、異なる知能レベルの、あらゆる老若男女の立場に自分をおいて見ること。こうしたことを自分たちの子供たち、そして自分自身に教えることが、残虐行為、罪悪感、恥じる心、憎しみ、暴力を減らし、すべてのひとびとにとって、もっと住みよい世界を築く一助となるのだと思う。(p.9)

読書の価値(森博嗣)

 

読書の価値 (NHK出版新書)

森博嗣『読書の価値』NHK出版新書、2018年より。

 

 世の中に、本というのは「無数」に存在している。実は有限なのだが、個人が読める量では全然ない。人生は多めに見積もっても三万日だから、毎日一冊読んでも、僅か三万冊しか読めない。だいたい国内では、平均して一日当たり二百冊の新刊が出ているそうだ。一日に二百冊を読んだとしても、これから出る本が読めるだけで、過去の本までは手が回らないし、本を出しているのは日本だけではない

 人間の数も本の数も、あなた一人に対して圧倒的に多いわけだから、出会いというのは、もうそれだけで奇跡的な確率といえる。そう考えて、出会った人、出会った本を丁寧に扱い、得られるものを見つけようと積極的になった方がよろしい、ということになる。

 人の教養や品格というものは、ある程度、その人の周辺の人々との関係によって形成されるだろう。どんな人間とつき合いがあるのか、誰の影響を受けたのか、といったことが基本となり、積み重なって、その人物が作られていく。これと同様に、読んだ本によって、やはり教養や品格が作られるだろう。(pp.89-90)

 

 人間は、ランダムに選んで勝手に知合いになるわけにはいかない。できるかもしれないけれど時間と労力がかかるし、ときには費用も馬鹿にならない。けれど、本は、幸い短時間で簡単に手に入り、しかも、もの凄く広範囲に、果てしなく多様なものが用意されているのだ。こんな商品はほかに例がない。本だけが特殊なのだ。それは、人間の知恵がいかに広くさまざまなものに及んでいるのか、あるいはいたのか、ということの証でもある

 書店よりも多種類の商品を並べている商売はない。ほとんどの店は、なんらかの目的を解決するためにあって、そのジャンルがだいたい決まっているのに、書店というのは、ただ本と呼ばれる共通の器に入っているだけで、中身がてんでばらばら、何の統一感もなく、世に存在するもの、存在したもの、否、存在しないものまで、なにもかも取り扱おうとしている。そういう人間の興味の無限さが、土に埋まった化石のように残っているもの、それが本なのだ

 だから、変化に富んだ、バラツキ豊かな偶然性を活用するのに、本ほどうってつけのものはない。その恩恵を最大限享受するには、とにかく、なんでもかんでも読んでみること。自分の勘を信じて、背表紙のタイトルだけで手に取ってみること。それが大事な姿勢だということになる。

 時間には制限があるから、実際にはなんでもかんでもとはいかない。だから、そこは、「面白そうだ」という抽象的な判断で篩(ふるい)にかけるしかないだろう。この篩が、個人の勘であり眼力だ。ジャンルを選んではいけない。どんな分野へも飛び込んでいく姿勢が優先される。(pp.101-102)

陰翳礼讃(谷崎潤一郎)

 

陰翳礼讃

陰翳礼讃

 

最近の若者たちの中には、自分のことを「陰キャ」と呼ぶことでうまく他人とコミュニケーションをとれない自分のことを慰めようとしたり、自分の部屋に一人こもってネット動画をずっと見ている自分の性格を特徴づけようとする人もいるようだけれど、薄暗さの中に楽しみや美を見いだそうとするのは、日本人がその気候や風土に適応してきた結果として培った伝統なのだと谷崎は言っている。

美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。(谷崎潤一郎『陰翳礼讃』中公文庫、pp.31-32)

 

昭和の女中さんの回想

 

小さいおうち

 中島京子『小さいおうち』文春文庫、2012年より。

 

 快活で、いつもお幸せそうに振る舞っていらしたけれども、奥様の最初の結婚は、幸福ではなかったといえるだろう。

 最初のご亭主は、そこそこの会社にお勤めのサラリーマンという話だったが、わたしが入ったころには不景気のあおりをくらってクビになっていた。親戚の経営する工場で、事務のような、日払いの嘱託のようなことをしていたのだが、気持ちが荒むのか、入ってくるお給金を飲んでしまって、子供もいるのに家庭になかなか帰らなかった。

 よくよく考えれば、子供がいるから帰らなかったのだろう。男の人によっては、子を産んだ妻を敬遠するものもあると聞く。あんなに美しい奥様と、天使のような男の子を蔑ろにするなんて、どうしたものだろうと思うけれど、夢のごとき結婚生活を思い描いて嫁いできた美しい妻を幸福にできない負い目は、器の小さい男にはまともに向き合えなかったのかもしれない。

 奥様は、冷えたお膳を前にため息をつく殊勝さは持ち合わせておらず、帰ってこないものの食事など作らないでもいいと言い張る気の強さだったが、陰では涙をこぼしたこともあった。それを知っているのは、わたしくらいなものだろう。(p.22)

「人間の愚劣さも崇高さも両方を知るべき」(上野千鶴子)

発情装置―エロスのシナリオ

上野千鶴子『発情装置:エロスのシナリオ』筑摩書房、1998年より。

 ※強調は引用者

援助交際」の女の子たちの現実をよく知っていそうに見える宮台くんの言い分は、そんなことしてると男にたかをくくるようになるよ、人生をみくびるようになるよ、というきわめてまっとうな説です。事実、彼女たちの相手は「たかをくく」られてもしかたのないみじめなオヤジたちですから、彼女たちの不幸は、ただ人間の愚劣さを他人よりすこし早く知った、という程度のことかもしれません。わたしは人間の愚劣さを知らないほうが幸福だ、という説には与しません。どのみち一生イノセントには生きられないのですし、子どもを人間の愚劣さから隔離しておくことができるとも思っていません。人間は愚劣なこともあれば崇高なこともある――必要なのはその両方を知ることです。(p.21)

 

彼女たちに必要なのは「たかをくくることのできない」他人との関係、「みくびることのできない」人生とのつきあい方です。そのための方法は、セックスを含む男女関係を若いときからふつうに持つことだ、という宮台くんのまっとうさは、ほとんど感動ものといっていいくらいです。つまり彼は十代の少女の身体を「使用禁止」にする中産階級の偽善をやめろ、と主張しているのです。(p.21)

 

 性と人格の一致 vs. 性と人格の分離の対立は、どちらもあまりに厳格に、つまりそれを考えついた男が定義したように、考えられています。両者の関係をもっとゆるやかに考えることはできないでしょうか。性と人格とのあいだには特権的な関係を前提する必要はなく、現実には性と人格との関係は連動していることもあればそうでないこともある、と。それはただ多様な性のあり方を認める、というにすぎません。それは多様な人格的関係のあり方が可能なことと同じです。だれかと性的な関係を持ったからといってそれに縛られる必要はないし、だれかに性的な欲望を持ったときにそれを抑える必要もありません。あとは相手がそれを受け入れてくれるかどうか、という関係の問題ですから。いやがる相手に関係を強要すれば嫌われたり、犯罪になることもある、というだけのことです。性をとくべつに理想化することもないかわりに、嫌悪することもありません。性には、人格的関係と同様、愛から憎悪まで、崇高から愚劣まで、あらゆるスペクトラムがあることは歴史が示しています。あとはわたしがそのうちのどれをキモチいいと思うか、という選択の問題ではないでしょうか。少なくともわたし自身は、自分の人生の限られた時間やエネルギーを、憎悪や愚劣な関係のためには使いたくない、と思うだけです。(p.29)

「人間機械の絶望がファシズムの政治的目的を育てる豊かな土壌」(E. フロム)

自由からの逃走 新版

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社、1951年より。

※下線・強調は引用者

 

 われわれの願望――そして同じくわれわれの思想や感情――が、どこまでわれわれ自身のものではなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。根本的には個人の自我は弱体化し、そのためかれは無力感と極度の不安とを感ずる。かれはかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。そこではひとであれ、物であれ、すべてが道具となってしまっているそこではかれは自分で作った機械の一部分となってしまっているのである。かれは他人からこう考え、感じ、意志すると予想されると思っている通りのことを、考え、感じ、意志している。かれはこの過程のなかで、自由な個人の、純粋な安定の基礎ともなるべき自我を喪失している。(pp.279-280)

 

 この同一性の喪失の結果、いっそう順応することが強制されるようになる。それは、人間は他人の期待にしたがって行動するときにのみ、自我を確信することができるということを意味する。もしわれわれがこのような事情にしたがって行動しないならば、われわれはたんに非難と増大する孤独の危険をおかすだけでなく、われわれのパースナリティの同一性を喪失する危険をも犯すことになる。そしてそれは狂気におちいることを意味するのである。(p.280)

 

 近代人はかれがよしと考えるままに、行為し、考えることをさまたげる外的な束縛から自由になった。かれは、もし自分が欲し、考え、感ずることを知ることができたならば、自分の意志にしたがって自由に行為したであろう。しかしかれはそれを知らないのである。かれは匿名の権威に協調し、自分のものでない自己をとりいれる。このようなことをすればするほど、かれは無力を感じ、ますます同調するように強いられる。楽天主義と創意のみせかけにもかかわらず、近代人は深い無力感に打ちひしがれている。そしてそのために、かれはあたかも麻痺したように、近づいてくる破局をみつめている(pp.281-282)

 

 もし興奮を約束し、個人の生活に意味と秩序とを確実にあたえると思われる政治的機構やシンボルが提供されるならば、どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受けいれようとする危険である。人間機械の絶望が、ファッシズムの政治的目的を育てる豊かな土壌なのである(p.282)