椎名誠『さらば国分寺書店のオババ』(新潮文庫、1996年)書評

さらば国分寺書店のオババ (新潮文庫)

さらば国分寺書店のオババ (新潮文庫)

何十年も前に、国分寺駅前に国分寺書店なる古本屋があったそうだ。そしてそこの店主であるオバさんがかなりの名物オバさんであったらしい。

国分寺書店といって、ここはわりあい幅ひろいジャンルの本が揃っているのだけれど、店主がしなびたバアちゃんで、顔のわりにはイヤにすきとおった若々しい声を出すのだけれど、これがまあじつにモーレツ的にうるさいバアちゃんなのね。たとえば一冊棚から本を出して眺めるとするでしょう。するとそのオババはじっとその人を眺めているわけ。そしてすこしランボウに本をめくったり、カバーのパラフィン紙をガシャガシャとすこしぞんざい気味に扱ったりすると、即座にスルドイ声でおこられてしまうのである。(55頁)

古本屋に限らず自分たちの周りには結構こういう人がいないだろうか。かつて某大学食堂のパスタ屋に、似たようなオヤジがいた。実際に自分も怒られたことがあり、同じメニューを注文をした人のパスタを間違ってお盆に乗せようとしたところ、「それはおめえのじゃねえだろ!!」といきなり怒鳴られてしまった。その瞬間はカチンと来たが、まあ間違ったのは自分だったしまあいいやとその場は黙ってやり過ごしたのだが、中には食って掛かる人もいたらしい。聞いた話しによると、パスタの上に自分で自由にかけていい粉チーズが近くに置いてあるのだが、それをかなり大量にかけていた人がいたらしく、それをみたこのオヤジは「チーズだってタダじゃねえんだぞっ、コラッ!!」と怒鳴り出したらしい。その人はかなりムカついたようで、そのオヤジに向かって「あなたの名前を教えてくれ。学生部に言っておくから。」と言う。するとオヤジは「おめえに教える名前なんかねえよ!」とまた怒鳴り返したらしい。その後どうなったかはわからない。あくまで人から聞いた話しなので。

こういう人は、プロとしての自分の力にすごく誇りを持っていて、パスタ屋のオヤジはどうか知らんけど、国分寺書店のオババは国文学の世界では結構知られた人だったらしい。しかし哀れかな、このような人たちは、商売をするにはあまりにもプライドが高すぎて、結局はビジネスの世界から消えて行かざるをえない。ある日椎名誠がいつものように国分寺に行ってみると、あるはずの国分寺書店がない。近くの店に聞いてみると、どうも店をたたんでしまったらしい。あれだけ客を罵倒するものだから、いつも店内には1人か2人の客しかおらず、あれではほとんど儲けはなかっただろうと椎名誠は言う。前出のパスタ屋オヤジは、某大学の学食の担当が一企業に統一された結果失職、友人によるとハローワークで職探しをしているのを見たらしい。オヤジを好意的に見ていた人や、一企業に統一されることを嫌う学生の中には、統一するなという署名運動をしていた者もいたようだが、結局は大学当局の予定通り統一された。人は「商売人としては失格なんだから当然だよ」と言うかも知れない。あるいは「プロとしての自覚があるなら、おかしな客には客であってもはっきり文句を言うのは当然だ」と言うかも知れない。相手と時と場合によって考えは異なるだろう。でも世の中の大勢は前者のようである。このような名物人間は、静かに誰の目にとまるともなく消えていっているようである。

椎名誠は、国分寺書店が消えてしまっているのを知った時、あまりのショックに呆然としてしまう。

不思議なもので、人間というものは自分の生活にとってそんなに深い関係があるわけでもないのに、そこに黙って存在していれば安心し、なにかの都合で急になくなってしまった、ということになると、その空虚感は思いがけないほど大きなものになるらしいのだ。(231〜232頁)

これには強くうなづいてしまった。自分にとっては住んでいる街の行きなれた古本屋、喫茶店ファストフード店などがこれに当たるだろうか。別にそれほど頻繁に使ってるわけでもないのに、そこにあるというだけで安心できるものは、おそらく誰にでもあると思う。長いこと使っていたなじみの店がなくなると、恐らく椎名氏のようにボー然としてしまうだろう。

ちなみに本書は椎名誠のデビュー作である。言文一致と「○○的○○的」という言葉を連発するのが特徴で、自分の文体を自分で「昭和軽薄体」と名づけた。文芸評論家には「昭和軽薄体は滅びます」とか「無内容な日常のバカ一味」(巻末の嵐山光三郎による解説)などと罵倒されたらしい。しかし読後感はすっきりしているし、哀愁を漂わせているのもいい。嫌いなものを批判する時はやたらと「○○的○○的」が多くなるが、その○○の中に入る長たらしい言葉には、彼のセンスや日常性が表れていて面白い。電車の中や休日に寝転んで読む軽めの本としては、ちょうどいい本だと自分は思う。