大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(岩波新書、1965年)書評

ヒロシマ・ノート (岩波新書)

ヒロシマ・ノート (岩波新書)

小説の執筆においては、「表現は対象を実際にとらえることではない、言葉によるモデルを造ることにすぎない」(『私という小説家の作り方』新潮文庫、147頁)と言い切っている著者が、小説というフィクションとは対照的に、まさに眼前に存在している現実の中にどっぷりと浸かりながら書いたのが本書である。

これまで自分が著者・大江健三郎に対して抱いていたイメージからすると意外に思われた点は、広島の「正統的な人間」を新しい日本のナショナリズムの積極的シンボルにする必要性を説いている箇所であった。

広島の正統的な人間は、そのまま僕にとって、日本の新しいナショナリズムの積極的シムボルのイメージをあらわすものなのである。(147頁)

現在の著者が40年近くも前に書かれた著作のこの箇所を読み返すとしたら、何かしらの留保を付けるだろうか。

原爆投下後に見せた被爆者らのヒューマニズムのみならず、原爆投下者の「ヒューマニズム」に潜む恐ろしい偽善にまで切り込んでみせた著者の筆力は圧巻である。広島の記憶は時とともに薄れてしまっても、それが提示する根源的な問いは、永久に現代性を失うことはないだろう。以下抜粋である。

広島への原爆投下にあたって、その作戦を決定したアメリカの知識人たちの一グループの心に、次のような《人間的な力への信頼、あるいはヒューマニズム》が、ひらめいたのではないか、と僕は疑うのである。この絶対的な破滅の匂いのする爆弾を広島に投下すれば、そこにはすでに科学的に予想できるひとつの地獄が現出する。しかし、それは人間の文明の歴史のすべての価値を一挙に破滅させてしまうほどにも最悪の地獄ではないであろう。その地獄のことを考えるだけで、すべての人類が、人間でありつづけることに嫌悪をもよおすほどの、まさに恢復不能の最悪の地獄ではないであろう。トルーマン元大統領が終生それを思い出すたびに眠りをうばわれてしまうような、救いようのない、出口なしの地獄ではないであろう。なぜなら、原爆を投下された地上、広島では、その地獄をもっと人間的な地獄にかえるべく働く人間たちがいるであろうから。僕は、かれらがこのように考えて、すなわち、いま自分たちが地獄におとそうとする、敵どもの人間的な力を信頼して、すなわちそのようなパラドキシカルなヒューマニズムの確信において原爆を投下する最後の決断をしたのではないかと疑うのである。(中略)広島の人々は、徹底的に壊滅されつくし、その市街全体が一個の巨大で醜悪なガス室と化すことによって、それをそうあらしめた者ら、原爆の投下者たちに、かれらがいったいどのように恐怖にみちた悪をなしたのかを、骨身に徹して理解させるということはしなかった。広島の人々は、被爆以後すぐさま、みずから恢復するために闘いはじめた。それは、もちろん広島の人々自身のための努力であったが、同時に、原爆投下者たちの良心の負担を軽減させるための努力でもあった。(111〜112頁)

しかし、政治的強者が、人間はどのように最悪の泥沼に蹴おとされても、なんとかみずからを救済するものだ、というたかをくくった考え方をもっていることほど恐しくグロテスクなことはないのではあるまいか?それほど徹底的な卑劣さにかざられたヒューマニズム信仰は他にないのではあるまいか?僕は聖書についてほとんどなにもしらないが、あの大洪水をもたらした神は、洪水後ノアが、再び人間世界をつくりなおすことを十分に信頼して、永い永い雨を降らせたわけであろう。もしノアが怠けものであるかヒステリックな絶望屋でその再建能力がなく、人間世界が洪水の後いつまでも曠野でありつづけることになったとしたら、天上には、神の狼狽があったことであろう。ノアが幸いにも能力をそなえていたので、大洪水は、神の期待より以上に暴威をふるうことなく、人間と神の秩序の枠内で役割をはたした。それは神があらかじめ予定調和を信じたとおりだった。しかし、こうした神とは卑劣な神ではなかったか?広島の原爆は、二十世紀の最悪の大洪水だった。そして広島の人々は、大洪水のさなか、ただちにかれらの人間世界を復活させるべく働きはじめた。かれらは自分たち自身を救済すべくこころみ、かれらに原爆をもたらした人々の魂をもまた救助した。現在の大洪水、凍結しているが、いつ融けて流れはじめるかもしれない全世界的な大洪水、すなわちさまざまな国家による核兵器の所有という癌におかされている二十世紀の地球の時代においては、広島の人々が救助した魂とは、すなわちわれわれ今日の人間の魂のすべてである。(114〜115頁)