辻仁成『函館物語』書評

函館物語 (集英社文庫)

函館物語 (集英社文庫)

海をいつまでも眺めているのが好きという人はきっとたくさんいるだろう。はるか遠くから砂浜に座っているちっぽけな自分を見ているような錯覚に襲われることもある。昔から大きいもの・広いものが好きな自分は(その反動かどうか知らないが、閉所恐怖症)、いつもこの錯覚を快く感じる。そしてそういう時に様々に思い巡らすことというのは現在か未来についてのことが多い。「自分は今ここにいるんだ」という自己存在の確認と、「ここから自分はどこへ向かおうとしているのか」という未来に対する漠然とした思い。

ところがこれが故郷の海の場合だと、事情が少し異なるのである。幼い頃に同じ場所で自分がしていたこと、考えていたこと、つまり過去の自分の思いが曖昧な記憶ながらも次々に思い浮かんで来る。自分はあの時こんなことを思っていた、こんなことを夢見ていた、そのようなことの積み重ねの結果今の自分がある。故郷の海はそんな思いをことさら強くさせる。異郷の地の海よりも、はるかに「おセンチ度」が強いのである。

海のある街で生まれ育った人間ならば、多かれ少なかれこのような思いはあるものだとずっと思ってきたし、そのような思いはそこで生まれ育った人間でなければわからないものだと心のどこかで思い込んでいたのかも知れない。ところが、自分と同じく高校の三年間のみを函館で過ごしたにすぎない著者が、函館の海を自分よりもはるかに鋭敏にとらえていたのである。自分にとって函館は生まれ育った街ではないが、しかし本書を読んで自分は函館の何一つ見ていなかったと思うしかなかった。(辻仁成の小説の中で海はたびたび重要な設定になっている。芥川賞受賞作『海峡の光』や『母なる凪と父なる時化』など。)

また、辻仁成が「観光地の外れに本当の観光地があったりする」(巻末、「散歩の手引き」)と言うのも「感覚的には」理解できる。しかし函館を訪れる時、自分がそのような視点に立って常に街を見ているかと言われれば必ずしもそうではないだろう。大森海岸から見た時化の津軽海峡の厳しさ(8〜9頁、12〜13頁)、一瞬筆者がここは東欧かと見紛うほどの、悲しみに溢れた夜の十字街(78〜79頁)、碧空とエメラルドグリーンの貯水池が生み出す笹流ダムの神秘性(60〜61頁)、どれも自分が決して気づくことのなかった「ハコダテ」であった。

この次に函館に戻った時は、自分も誰もが気づかなかった宝を探して少し街を歩いてみようと思う。少し辻仁成になった気になって、函館という街をもう一度しっかり見てみようと思う。そしてそこで見つけた宝物というのは、その感動を無理に他人に伝えようとした瞬間に消えるか欠けてしまう類のものなのだろうとも思う。イカ釣り漁船の漁火を見た辻仁成がこう言っている。

この瞬間の函館の美を、誰かに伝えたくて仕方なかった。しかし、本当に美しいものは、みんなで共有するものではない。私はそっと自分の胸の中だけにしまいこみ、静かに満喫した。函館の本当の美しさがまだ誰にも知られていない喜びを実感し、このポイントがベニスのサンマルコ広場脇の岸壁のような、観光客の巣にならないことを祈るばかりであった。(110〜111頁)