金子達仁『28年目のハーフタイム』書評

28年目のハーフタイム (文春文庫)

28年目のハーフタイム (文春文庫)

金子達仁の本を読むのは初めてだが、スポーツライターというのは、小説家に負けず劣らず、複雑な人間像を描き切る能力が要求される職業なのだなと痛感した。そしてその才能が著者の中に確かに存在していることを実感した。この本を読んで、スポーツライターの存在意義とは何かということについて考えざるを得なくなった。

金子は「日本はまだ勝った経験からくる“勝者のメンタリティ”を持っていない」(106頁)と言う。そしてそれは選手や監督に限らず、マスコミにも当てはまるのだとも言う。自分はむしろマスコミにこそ当てはまると考えているのだが。

金子は言う。

試合の主導権を握っていながら、力が劣るチームのカウンターを食らって負けるというパターンは、サッカーという競技の性質上、どんな強豪にもおこりうることである。だが、勝った経験のある国のマスコミとない国のマスコミでは、そこからのリアクションが違ってくる。ロサンゼルス・オリンピックの最終予選でタイに負けた時もそうだったが、クウェート戦の敗戦以降、日本のマスコミはあっという間にパニックになってしまった。それまでの根拠なき楽観論は一気に影をひそめ、今度は根拠なき悲観論が取ってかわった。

これが勝った経験のある国のマスコミになると、盛大にその試合についての批判を展開するものの、それをあとの試合と結びつけて論じることはまずない。つまり『サッカーにはこんなこともある。仕方がないさ』という認識が、常識として行き渡っているのである。

ドイツはアルジェリアに負けたことがある。アルゼンチンはカメルーンに負けたことがある。そしてブラジルは、日本に負けたことがある。いずれの敗戦も、日本がクウェートにやられたように、相手の露骨なカウンター狙いにはまった結果のものだった。では、こうした国のマスコミが『もうわが国の時代は終わった。未来は暗い』という論陣を張っただろうか。それに合わせるかのように、チームも立ち直れないまま大会を去っただろうか。答えは絶対にノーである。(107〜108頁)

サッカーの強い国では、必ず優秀なマスコミが選手をバックアップしている。彼らの批判は本当に辛辣だ。しかしその批判は、選手が置かれている複雑な事情をきちんと認識した上でなされるものである。選手が置かれている状況には運不運が大きく影響を及ぼすことも多々あるだろう。しかし彼らマスコミには、そういった運不運を乗り越えてこそ真のアスリートだという信念がある。そして選手を育てているのは自分達だという強烈な自負がある。

しかしこのような信念や自負は、短い時間の中で生まれたのではなく、選手達と共に修羅場を潜り抜けてきた歴史と伝統があってこそのものであった。そう考えるならば、日本のマスコミは、W杯初勝利を遂げた日本代表チームと同様、ようやく歴史の第一段階に到達したところだと言える。客観的かつ厳しいプレイ批評によって選手を育成しているという自負が生まれるのはまだまだ先のことだろう。

もう一点目に止まった箇所は、「サッカーと近代民主国家の関係」について論じられている箇所である。

産業革命によって近代化が始まるのと時を同じくして、サッカーもまた近代化(=スポーツとしてのルールの確立)されていった。荒々しいモブ・フットボールをその起源とするサッカーは、統一ルールによって行われるアソシエーション式フットボール(Soccer)へと変貌を遂げる。このような経緯から、近代民主国家とサッカーの共通性を金子は以下のように述べている。

まず個人の権利が重要視され、それを尊重したうえでより大きな利潤を産むために集団を形成するのが近代国家だとしよう。“権利”という言葉を“技術”、“集団”を“組織”とでもすれば、近代民主国家の定義は、そのままサッカーの定義にも置き換えられる。(193頁)

近代国家形成の過程で生まれたサッカーは、極めて個を重視する競技である点は疑いない。サッカーの発展のためには、この競技の「個の尊重」という性格を無視することはできないだろう。ただ、サッカーという競技の中での「個の重視」と、イデオロギーとしての民主主義が大きな関連性を持っているとは一概に言えないと自分は考えている。このことは後藤健生『サッカーの世紀』(文春文庫)の書評でも述べた。

さらに、金子も言うように、日本の選手にはこのサッカーの「個を重視する」という性格の意味をはき違えている者もいる。

オリンピック代表に限らず、監督の目指すサッカーが『つまらない』と平気で口にする選手は、日本代表にもクラブチームにも、それこそゴマンといる。彼らのうちの何割かは、その真意はどうであれ、平気な顔で『自分のために戦う』と公言する。彼らは、それが個人主義でありヨーロッパのやり方だと信じている。得点をあげると自らのユニホームを誇示し、『このユニホームの力が俺に得点をさせてくれたんだ』とアピールする選手が大勢いることを知らないまま、個人主義の発達したヨーロッパでも嫌われるエゴイストのマネばかりをしている。(195頁)

日本はサッカーにおいては明らかにまだ後進国である。今後の発展の過程において、おかしな方向に向かう選手やマスコミをきちんと牽制できる金子達仁のようなライターがもっともっと増えることを祈る。