David Campbell, Writing Security書評①

sunchan20042005-08-21

David Campbell, Writing Security: United States Foreign Policy and the Politics of Identity, Revised Edition, MN: University of Minnesota, 1998. 書評


本書はアイデンティティの政治を論じる上で、とりわけアイデンティティと安全保障問題の関係を論じる上で非常に重要な文献であり、リアリズムが最も有力な言説であった戦後の安全保障問題に対して、近年新たな分析枠組を提供している批判理論の流れの中に位置づけられるものである。本書の文体が難解だということもあり、章ごとに内容のまとめとコメントを書くことにする。

【Preface & Introduction】

先日取り上げたDotyの移民問題とナショナル・アイデンティティについての論文と同様、Campbellもまた、アイデンティティを所与のものとしてではなく、絶えず変化の過程の中にあるものとして定義する。アイデンティティが社会的・政治的・文化的に構成されたものであることを、対外政策、特に安全保障政策の決定との関係によって明らかにしようとする。というのも、安全保障政策には必ず「何をもって脅威とみなすか」という問いが伴うものであるため、そこに人間の恣意的な解釈が入り込む余地があるからである。そして、移民の定義と同様に、「外部」(脅威)と「内部」(自国)との間に境界線を引くことがそこで必要とされ、前者によって後者のアイデンティティが確固たるものになるのである。逆に言えば、国家はアイデンティティの喪失に陥らないために、絶えず対外政策の決定を通して危険の存在を明確にしておくことが要求されるのである(13頁)。

脅威認識の不確実性を最もわかりやすく説明する例が、1991年の湾岸戦争である(1頁)。米国から遠く離れた地域においての戦争が米国自身にとって差し迫った脅威にはなり得なかったにも関わらず、それは米国の国益に対する深刻な挑戦として受け止められた。他方で、それよりも10年前にイラククウェートと同じ産油国であるイランに侵攻した際にはなんら国際的な非難は起こらず、軍事行動を求める声も出なかった。すなわち、「何が脅威なのか」の決定は「解釈の産物」(2頁)であり、そうした脅威の定義に基づいて作成される対外政策もまた、人間の主体概念に伴う不確実性から逃れることはできない。

集団のアイデンティティ(collective identity)の場合、その集団の中には、本来「偶然に左右される不確実なもの」をあたかも「標準的で、受け入れ可能な、望ましいもの」に変えるための標準化ルール(normalizing codes)が存在している(9頁)。それによって本来は偶然や恣意性によって作られたはずのものが、その社会における標準を構成する確固たるものとして見なされるようになる。脅威の定義も同様で、極端な場合、なんら事件や他国の行為が存在しなくても、対外政策を決定することを通して、脅威は生み出され得るのである(3頁)。

以上から明らかな通り、本書の目的は長いあいだ不問にされてきた「国際政治における主体概念の不確実性」the problematic of subjectivity in international politics、x頁)を米国における対外政策の作成を事例にして明らかにすることである。

このテーマに関連するところでは、William E. Connolly が「Identity/Difference」について書いており、Campbellも参考にしている。また、James Der DerianやMichael J. ShapiroやRichard Ashleyがポストモダニズムの視点から安全保障問題を論じる論文を出している。また、前書きでCampbellは、自身の議論がMichel Foucaultに多く負っていることを述べている(x頁)。