映画『誰も知らない』レビュー

sunchan20042005-10-24

ずっと見たかったのについにスクリーンで見るチャンスを逃してしまい、ようやくDVDで見ることになったこの映画。本当に見てよかった。しかもこの時期に見てよかった。

この映画は実話(「巣鴨子供置き去り事件」)をモチーフにして、しかし子供たちの行動や子供たち以外の登場人物などは全てフィクションとして作られた物語である。主演の柳楽優弥カンヌ国際映画祭で最優秀主演男優賞を取って一躍有名になったこの映画について、実に多くの人がネット上で映画評を書いており、軽く検索しただけでも数え切れないほどのレビューが出てくる。

しかし、そのレビューのほとんどが「子供たちがかわいそう」「母親は最低」「現代版蛍の墓」などといった印象やそれに近い内容のものを書いており、自分にはそのような内容はこの映画のストーリーの衝撃さに目を奪われて、もっと広い日本社会の描写を完全に見逃しているダメなレビューにしか思えなかった。社会科学を学んでいる自分が作品の中に何らかの社会的含意を見出そうとしてしまうのはあまりいい癖ではないかも知れないが、しかし是枝裕和監督のインタビューによれば「この映画の彼の中でのテーマは「東京論」であり、子供は未熟であるという一般的な意見に対してのアンチテーゼ」であると、あるブログで書かれていたので、あながち自分の受けた印象は的外れではないような気がする。http://thewayitgoes.dokyun.jp/archive/d-20050926.html

また、高級官僚の自殺をめぐるドキュメンタリーを撮った時、是枝監督が以下のように述べていることからも、彼が自分の作品に社会的な意味合いを持たせようとする監督であることが推測できる。

単純に自殺というトピックが感じさせるセンセーショナルな部分だけではなくて、彼の自殺から僕がひきだしたもう少し社会的に広がりのあるテーマを描きたいと思ったんです。つまり、彼の自殺を生んだ社会に投げかえすという行為によって、彼の自殺という事実と社会とをつなげていくという意味を作品に持たせたいと思ってつくったものだから。
http://cq.panasonic.jp/article/nippon/001/03.html

この映画を見て真っ先に思ったのは、背景にある東京という街のすさまじい「荒廃ぶり」である。もちろんそれは焼け野原とかスラム街といったものに対して使う荒廃とは違う。街の中で生きている人々は一応表面的にはせわしなく動いていて、懸命に生きようとしているように見えても、どこか受け身的で、全体から灰色の疲労感が漂ってくるのである。街そのものが吐く「は〜…」という大きく深いため息が聞こえてきそうな東京描写であった。これが世界第二位の経済大国の首都かと思ってしまうほど、そこから表面を取り繕った東京の貧困とくたびれ感が漂ってくるような映像であった。

自分がこのように感じたのは間違いなく日本の外にいて、そこから日本を見ているからであり、おそらくこれは日本にいては気づかなかったことだろう。数年前までは自分もあの疲れ切った街の中で特に意識も疑問も持たずに普通に生活していたのである。これは考え方によってはとても恐ろしいことである。いずれまたこの東京という街で生活を始めることになった時、自分は果たして今まで通りの生活ができるのだろうか。アメリカに来るまでは全く気づくことのなかった違和感をたくさん覚えながら暮らすのではないだろうか。それは果たして幸せなことなんだろうか。刻々と変化を見せる東京という街のダイナミクスと、それに伴ってますますはっきりしてくるように思える人々の疲れ切った表情と荒む心を自分はどう受け止めるのだろうか。

監督自身がこの映画を通してどのようなメッセージを送ろうとしていたのかは定かではない。しかし、それはここでは特に重要ではない。芸術作品は作り手(生産者)の意図とは関係なしに、それを鑑賞する側(消費者)がどうそれを解釈しかつ伝播したかというプロセスも重要であるから、自分がそこに東京の「荒廃ぶり」を見たのであれば、それには何らかの意味があることだと思っている。

ただ、是枝監督の人間描写・社会描写について完全に同意できることがある。それは、監督がハリウッド映画的な勧善懲悪や白黒明白な善悪の基準を適用することとは最も遠くに位置している人物であることである。インタビューの中で監督は以下のように発言している。

映画祭やティーチインでこの映画を観た人たちの質問を聞いてみると、やっぱりハリウッド映画的な結末を期待する人が結構いたんですね。ヨーロッパの批評家にもそういう人は案外多いんですよ。もしこれがアメリカ映画だったら、母親が最後に不幸になるか、子供たちのところへもどってきて謝ってまた一緒に暮らしはじめるかっていう終わりしかないと思い込んでいるんです。でも自分としては、そういうわかりやすいカタルシスを与えるのではない方向にある思考を、観終わったあとに観た人のなかで進めてもらおうと思ってつくったものなのです。そのことが観た人たちのなかである種の軋轢を生んだり共感を生んだりしているのをみると、この映画をつくった意味はあるなと思っています。http://cq.panasonic.jp/article/nippon/001/index.html

また、テレビと小説・映画を比較して以下のように述べていることからも、それは明らかである。

テレビのいちばんの罪は難しいことをわかりやすくしちゃうところだと思う。本来、世界は複雑にできているのだから、小説や映画はやっぱり世界を複雑なまま描くべきだと思います。複雑なものをどう複雑なものとして届けるか、もしくは簡単だと思われているものをどう複雑なものなんだって気づいてもらうか。(『この映画がすごい!』2004年9月号)
http://cinema-magazine.com/new_tokubetsu/meigen8.htm

自分には映画についてのテクニカルなことは何もわからない。演技論や技術論については何も言えない。むしろ今の自分にはそのようなことは瑣末なことのように思われる。ただ、是枝監督がフィクションとはいえドキュメンタリー風にこの映画を作って、映像のリアルさを高めた点と、そのような描写の中で、監督自身または一般に流布する善悪の基準を登場人物に演じさせなかった点は、東京の一面を抉り出して観る者に強く訴えることの成功に大きく貢献しているように思えた。

出演した子供たちについて言えば、主演の柳楽優弥ばかりが注目されているが、自分には長女の京子を演じた北浦愛(きたうら・あゆ)の表情がとても印象的だった。是枝監督自身も彼女の演技が群を抜いていたことを認めている。

子供たち全員が自然な演技をすることができたのは、じつは長女役の子のおかげなんですよ。やっぱりあの子が圧倒的に上手かった。完全に女優だった。オーディションの段階からほかの子とは違って、いわゆる一般的な子供芝居ではない上手さを持っていた。喜怒哀楽の幅の薄さがすごいなと思ったんです。まばたきひとつでだいぶ見え方が違ってくるような表情を、ちゃんとしてくれるわけですよ。計算してはいないと思うんですけどね。しかも何度やってもまったくブレないので、あの子を基本としてほかの子たちのお芝居を合わせていくというやり方をしました。
http://cq.panasonic.jp/article/nippon/001/02.html

テーマ曲を歌っていて、映画の中でもコンビニの店員として出演しているタテタカコの歌「宝石」も映画にマッチしていてよかった。

この時期にこの映画を観られたのも何かの縁だろうと自分では思っている。半年後には東京という街でまた生活を始めようとしている自分にとって、この映画はとても重要なメッセージを送ってくれたし、住み始めてからも自分はこの映画が発している(と自分が勝手に思っている)メッセージを忘れずにいることだろう。