「日本に知識人はいない」、「善意のマッドサイエンティスト」
- 出版社/メーカー: 講談社
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- 作者: 茂木健一郎
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「出でよ、新しき知識人―『KY』が突きつける日本的課題」
と題する論稿を寄せている。
宮台は「知識人とエキスパート(専門人)は分けて考えるべき」と主張し、さらに日本は「エキスパートだらけで知識人が皆無」と述べている。その中で「善意のマッドサイエンティスト」という言葉が出てくる。
知識人は公的貢献への意欲ゆえに社会的な全体性にアクセスできる存在です。これに対してエキスパートは、専門領域に通暁しますが、社会的な全体性にアクセスする動機づけも能力も持たない存在です。社会システムが複雑で流動的になれば、全体性を参照するのは困難になるので、どこの国でも知識人が減ってエキスパートが増えます。それでも、エキスパートだらけで知識人が皆無というのは日本的現象です。全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。
近代化の結果として学問が際限なく細分化されていき、いくら心ある知識人たちが「知の全体性の回復」を唱えても、近い将来この細分化がとどまる気配は全くない。もはや後戻りできないところまで来てしまったように見える。しかし、本来は近代化の過程で「細分化せざるを得ない」状況になったもののはずなのに、今ではそれが「細分化されていなくてはならない」と、いつの間にか当為のものと見なされるようになってしまっている。解像度は驚くほど大きくなったものの、全体像はますますわからなくなった。その結果として現れたのが、自分は何一つ間違ったことなどしていないと、自分の行為の否定的影響になど思いも及ばない「善意のマッドサイエンティスト」である。(環境に良かれと思って進められたバイオ燃料の生産は、結果として原料価格の高騰を招き、それが最貧国の人々の生命を脅かしているのは、おそらくその一例だろう。)
茂木健一郎も『思考の補助線』(ちくま新書)の中で、「世界全体を引き受けること」「世界をその中心で統べるものを把握すること」の必要性を強調している。たとえ不可能であっても、常にそれを志向すべきだと茂木は論じている。
日本ではある分野に秀でた学者やエキスパートが、専門外の分野で発言を求められた時、驚くほど幼稚でバカバカしい発言を平気ですることがよくある。そのような姿を見ていると、極限まで知が細分化された現代だからこそ、「知の全体性」の必要性はむしろ高まるのだとの論には確かに共感を覚える。
でもそれは決して「なんでもかんでも」という意味ではなく、「複数のものをつなぐ有機的なつながり」という意味のはずだ。そして、人間一人が引き受けることのできる知には限界があるということも認識しなくてはならないのではないか。じゃないと、偏執狂的な「知的助平根性」に見られかねない。茂木の知性のすごさには敬服するが、彼の文章にはっきりと見受けられる苛立ちを感じ取るたびに、「人間一個の分をわきまえる」ことも大切なのではないかと思われてしまう。