「民意」とは何か?

昔から大衆というものに警戒心を抱いている。しかし大衆とは言ってもそれは社会の大多数の人たちを指す言葉というよりは、程度の差はあっても誰にでも備わっている大衆性のことであり、当然それは自分にもあると思っている。現代人は自己の存在もその一部を成しているその大衆性に時にはなびき、流され、歓喜し、また時には被害を被り、憤り、泣き寝入りする。メディアの報道の仕方にそれは具体的に表れている。

小沢一郎民主党代表に辞任を促す空気が強まっている中で、多くの大衆はメディアで流される断片的な情報に基づいて今「憤り」を持っている。ある友人がいまや「献金」が「賄賂」と同義に解釈されてしまっていると言っていたが、それは明らかにメディアの報道の仕方によるものである。

政治家を含め、多くの人の人生を大きく左右する「民意」とは一体何なのだろうか。いろんな意見を寄せ集めたものが民意なのか、それともメディア等の世論調査が民意なのだろうか。それはどこにあるのだろうか。

細谷雄一・慶応大学准教授は「そんなものはどこにもない」と言う。1年半ほど前に書かれたもので、2007年10月17日付の読売新聞に載った、「『民意』連呼の危険」という記事である。その中で細谷氏は以下のように述べている。(一部抜粋)

波の形が常に変転するように、それは移ろいやすく姿を変える。であるとすれば、本当の「民意」がどこにあるのか、みんなで探そうではないか。
しかし、そんなものはどこにもない。民主主義とは、複数の民意が存在する中、その均衡によって成り立っている。そこに政治の技術や、妥協が必要となる。衆議院も、参議院も、地方議会も、世論調査も、どれも本当の民意なのだから。もしも新鮮な民意が欲しいのなら、毎日選挙をして、毎日即日開票して、首班指名と組閣をして、毎日新しい内閣をつくればよい。絞りたての牛乳のように新鮮だ。しかし、これは国民が望む政治なのだろうか。国民の利益に繋がるのだろうか。安定した政治を望めるのだろうか。
民意を反映させることはあくまでも、より良い政治を行い、国民がより豊かにそして幸福になるための手段に過ぎない。それを、政治の目的と勘違いしてはいけない。もちろん私は民主政を否定するつもりはない。だが現在の民主政では、代議制という制度を通じて民意が一定程度影響力を行使しているに過ぎない。
20世紀アメリカを代表するコラムニストのリップマンは『幻の公衆』という著書の中で、政治で民意を実現することを「達成できない理想」と揶揄した。世論が果たすべき役割は、自らが政治の「主役」となって政治を動かすことではない。それは「外部から他者の行動を統制する試み」に過ぎないのだ。リップマンは、「人民が統治しているという考えを捨てねばならない」と警告する。というのも「輿論がじかに統治しようとするとき、それは失敗か専制となる」からだ。
ブッシュ大統領は、そのような移ろいやすい民意に翻弄された大統領でもあった。9・11テロの後には大統領支持率が90%まで跳ね上がり、ワシントン・ポスト紙においては「リンカーン大統領の響きがある」と記し、戦時大統領を賞賛した。憎悪の感情に駆り立てられたアメリカの民意は、明らかに戦争を後押ししていた。しかし現在のアメリカ世論はむしろその戦争の惨状を糾弾し、ブッシュ大統領を低く見る。アメリカだけではない。日露戦争後の講和条約を屈辱的だと糾弾して、日比谷焼き打ち事件を起こしたのも、一つの民意の表出であった。
民意とは本来は、代議制下の政治家たちの行動を「統制する試み」である。だとすれば、一つの熱しやすく冷めやすい民意だけではなく、多くの民意があるのも悪くはない。社保庁の不祥事や政治資金問題に怒りを投げつけた参院選での「民意」があり、構造改革を断行すべきと進言する衆議院の「民意」がある。また福田首相誕生を後押しした、政治の安定と成熟を求める「民意」もある。一年前には、古い自民党を脱皮して新しい政治を求める「民意」が安倍首相を誕生させた。多少は古くとも、それらの「民意」もある程度尊重すべきであろう。
政治家は、「民意」という姿無き「主役」の横暴に振り回されることなく、「民意」による「統制の試み」を謙虚に受け止めて、真摯に政治を行って欲しいと思う。その先にこそ、成熟した民主主義が待っているのではないか。
読売新聞2007年10月17日「論壇」より

小沢一郎という政治家はいまや「『民意』という姿無き『主役』の横暴」に振り回された人であり、同時に16年前にはその民意を武器にして政界再編を成し遂げた人でもある。民意は諸刃の剣であり、とらえどころがなくて気まぐれなものである。