「精神革命」の時代

今の時代は「成長が止まってしまった退屈な時代」などではなく、「落ち着いて自分の好きなことを追求できる良い時代」に変わったというお話です。

昨日(27日付)の朝日新聞で、広井良典千葉大学教授・公共政策)の連載コラム「あすを探る」を読んだ。今回は「成長期終え創造の時代へ」というタイトル。

ちなみに広井氏の現代社会論はいつもとても楽しく読んでおり、この日の同じページで連載雑誌評を書いている東浩紀、「街場シリーズ」でおなじみの内田樹と並んで、自分が強い信頼を寄せている気鋭の論客の一人です。『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)で第9回大佛次郎論壇賞を受賞した時はさもありなんと感じました。(買ってまだ読んでないんですが・・・)

今回のコラムで何が書かれているかと言うと、部分的な引用ですが、以下のようなことです。

人類学や考古学の分野で、「心のビッグバン」あるいは「文化のビッグバン」などと呼ばれている興味深い現象がある。遺跡等の発掘調査で、たとえば加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品のようなものが今から約5万年前の時期に一気に現れることを指したものだ。

(中略)

ところで人間の歴史を大きく俯瞰した時、もう一つ浮かび上がる精神的・文化的な面での大きな変化の時期がある。それはヤスパースが「枢軸時代」、科学史家の伊藤俊太郎が「精神革命」と呼んだ、紀元前5世紀前後の時代であり、この時代ある意味で奇妙なことに、「普遍的な原理」を志向する思想が地球上の各地で“同時多発的”に生成した。インドでの仏教、ギリシャ哲学、中国での儒教老荘思想、中東での旧約思想であり、それらは共通して、特定のコミュニティーを超えた「人間」という観念を初めてもつと同時に、何らかの意味での“欲望の内的な規制”を説いた点に特徴がある。

(中略)

そして議論を急げば、いま述べている「心のビッグバン」や「枢軸時代/精神革命」は、それぞれ狩猟・採集社会と農耕社会が、いずれも当初の拡大・成長の時代をへて、(環境・資源制約などに直面する中で)何らかの意味での最初の成熟・定常期に移行する際に生じたのではないか、というのがここでの私の仮説である。

(中略)

「心のビッグバン」期も含めて、そこで起こったのはいわば“物質的生産の量的拡大から、内的・文化的発展へ”という転換だったと考えることが可能ではないだろうか。

以上から示唆されるように、現在の私たちが直面しているのは、人類史の中でのいわば“第三の定常期”への移行という大きな構造変化である。この場合、「定常」あるいは最近話題になっている「脱成長」という表現を使うと、“変化の止まった退屈で窮屈な社会”というイメージをもつかもしれないが、それは誤りだ。ここで見た人間の歴史が示しているように、定常期とはむしろ文化的創造の時代なのである。私たちが迎えつつある定常化の時代は、成長期にあった「市場化・産業化・金融化」といった“一つの大きなベクトル”から人びとが解放され、一人ひとりが真の創造性を実現していく時代に他ならない。

加えて、成長・拡大の時代には世界が一つの方向に向かう中で「時間」軸が優位となるが、定常期においては各地域の風土的多様性や固有の価値が再発見されていくだろう。そしてこれらは資本主義の変容ないしポスト資本主義というテーマとつながる。

(2011年1月27日付・朝日新聞より)

なんという刺激的な議論だろう。これを読んだあとでは、むしろ画一的にみんなが豊かになろうとしていた時代のほうがむしろ退屈な時代に見えてくるではないか。

中国がGDPで日本を追い越し、日本は「世界第2位の経済大国」という看板を下ろさざるを得なくなったが、冷静に考えたら人口が10倍以上なのだから、いつかは追い越されて当然である。大きい国は大きい国で内部に大問題を抱えるのだから、その象徴的な意味合いだけに惑わされるべきではない。

先日、朝日新聞で別の論者が「このままだと3位どころか、4位のドイツにも数年後には越され、続いてインドやロシアなどにも越され、いずれは10 位にも入れなくなるかも知れない」と危機意識を煽る記事を書いていたが、広井氏が論じる文明史の流れから俯瞰すれば、そういう議論はすべて虚しく響いてしまう。

「豊かになって何をするのか」に答えられないまま闇雲に豊かさを追い求めている人が、今もまだたくさんいる。立ち止まって、文明がもたらしてきた数々の問題を解決するために内省を深める定常期こそが現代と考えた時、自分はなんといい時代に生きているのだろうと思わざるを得ない。