没頭するという感性を忘れてしまう

采配

采配

仕事で大きな成果を上げようと取り組んだことにより、私の人生の中で犠牲にせざるを得ないこともあった。
そのひとつが子育てである。長男・福嗣を授かったのは33歳の夏だった。自分の分身だけに可愛くて仕方がなかったが、ちょうどロッテからドラゴンズへ移籍したシーズンで、セ・リーグの野球に早く順応し、4度目の三冠王を獲ってやろうと必死に野球と向き合っていた時だった。

正確に書けば、私が子育てをしなかったというよりも、妻がさせなかった。プロ野球選手という仕事は肉体が資本ゆえ、息子を風呂に入れたりすることも負担になると考えたのだろう。事実、私は家にいる時間も野球のことを考えていたし、他の人が寝ている時間もバットを振っていた。息子に構う時間はなかったのだ。些細なことかもしれないが、今にして思えば、風呂に入れたり遊びの相手をしてやりたかった。だが、当時は私だけがそうしていたのではなく、プロ野球選手の家庭は同じような感じだったはずだ。もっと言えば、企業戦士の家庭も似たようなものだったのではないか。子育てを含む家事全般は、妻の役割という時代だった。

それから25年が過ぎる間に、社会の考え方は変わってきた。夫婦共働きの家庭は珍しくなくなり、家事も主婦と主夫が協力する。それは時代の変化と受け止めればいいが、最近は仕事と家庭という部分だけではなく、あらゆる面で「何かに没頭する」時間が少なくなったように感じている。

プロ野球選手も、1年の3分の2は家を空けるという状況こそ変わっていないが、帰宅すればプロ野球選手から夫や父親に変わる人も増えた。
野球という仕事に打ち込みながら、家庭人としての存在も両立しているイメージだ。私から見れば、そうやって生活できているのは羨ましい。恵まれた時代になったのだ。ただ、それによってプロとして大成するチャンスだけは逃してほしくないと思っている。

1日、1日と生活していく中で、さまざまなことをそれなりにこなそうとすれば、どうしてもバランスを取ろうとするため、ひとつのことに深く取り組む、すなわち没頭することができない。そして、それを一定の期間継続すると、没頭するという感性を忘れてしまうのである。

レギュラーになれるチャンスが目の前に転がっている時は、他のすべてのことを忘れてつかみ取りに行かなければ、絶対に手にすることはできない。ビジネスマンでも同じような境遇に置かれることがあるはずだ。そこで自分の仕事に没頭できるか。それとも普段と変わらぬ取り組みでチャンスを逃すか。あるいはチャンスだということさえ見逃すか。

古臭いことを言っていると思われるかもしれないが、社会の考え方が変わっても、社会人として台頭するためのプロセスは変わっていない。そして、これからも変わらないだろう。

自分の目標を達成したり、充実した生活を送るためには、必ず一兎だけを追い続けなければならないタイミングがある。進学や資格取得のための勉強、昇進を見据えた仕事のスキルアップ、独立を目指して青写真を描く時期。それだけに没頭して首尾よくものにできれば、また新たな道も開けてくる。奥さんや子供たちと楽しむ時間も得られるだろう。だからこそ、大きな成果を得るためには、何かを犠牲にすることもあるという覚悟をしておきたい。
落合博満『采配』51-53頁)