「社会の歯車となるために、笑うんじゃない。」(辛酸なめ子)

朝日新聞2013年8月7日「(耕論)乾いた笑いの時代に 桂文珍さん、辛酸なめ子さん」より。

ノリが悪くてもいいじゃない 漫画家、コラムニスト・辛酸なめ子さん 

インターネットを始めたのは1993年ごろで、人より早いほうでした。だからネットの世界に抵抗はないのですが、フェイスブックだけはやりません。自分の人生を楽しそうに演出し、「いいね」を押し合う。そんな「幸せアピール」の共同体に、どうしてもなじめなくて。そういうの、昔は年賀状くらいだったんですけどね。


いまは、誰もがいつもスマホアイパッドを見続けている、いわば情報中毒社会。情報中毒の症状っていうのは、常に刺激を求める状態になるってことです。そして、そういう社会で人々が最も渇望するのが「笑い」です。

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<無邪気さ消えた> コメディアンがただ滑って転ぶだけ。そんな無邪気な笑いがテレビから消えたのは、空気を読み、格上の人がスベらないよう協力しあう現実社会の縮図のような芸人社会が、テレビの世界に入り込んできちゃったからではないでしょうか。芸人さんのやる気を高めるため、ディレクターが率先して大声で笑ってることも多いですし。


人を笑わせるのってたぶん、攻撃の一種なんです。相手の感情を支配するということだから。笑いは、ほかのどんな感情より相手を脱力させ、無防備にさせる。


バラエティー番組でご一緒させていただいた芸人さんに「笑ってくれなくて傷ついた」と言われたこともあります。手をたたいて大きな身ぶりで笑わないと、楽しんでないと思われちゃうみたいですね。いえいえ、私なりに結構楽しんでたんですけど。


ネットでも、嘲笑のサインである「w」の文字をよく見かけるようになりました。「あのアイドルが激劣化www」とか。あれを見るたび、世の中荒れてきたなと思う。悲惨な事件や事故のスレッドでも「w」付きのコメントをよく見かけます。万能感や優越感にひたってるんでしょうか。


権力者に対するネガティブな気持ちの集積は、いつの時代にだってある。ただ、最近はネットやテレビが、そうした負の感情をかつてなく深くしているような気がします。セレブたちの華やかな私生活や交遊を簡単に垣間見ることができるようになり、自分の現実と比べては鬱屈(うっくつ)する。そんな状況を生み出しているのかも。


私は漫画家なので、「いい年をして」と言われながら、くだらないことを率先して描いていたい。それで笑ってもらえたら光栄。意味とか結果とかが、必要以上に求められる時代だから。食べログの点数やアマゾンのレビューを見ていると、そのうちフェイスブックで人の点数を付け合っちゃったりする時代がくるのかな、と思ってしまう。日本全体が格付け社会だから、気が抜けないんですよね。

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<本当に楽しいか> とある高校の生徒たちが、授業で互いのいいところを書き合う番組を見たのですが、ほとんどの子が「ノリがいい」って書いていて。そうか、ここまでノリをアピールしなきゃいけないんだ、高校生も大変だ、と思いました。


おもしろくなければ、別に笑わなくていいじゃないですか。ノリが悪くて誘われなくなることや、友達が減ることがそんなに怖いですか。ひとりの時間を楽しめるようになれば、集団のなかでひとりになっても怖くないはず。


誰かと笑いあっている環境から距離を置き、自分が本当に楽しい、幸せだと思えることは何なのかを突き詰めてみてはどうでしょうか。落語、映画、民話、何でもいい。笑いの幅をいろんな方面に広げていけばいい。


私は猫の動画をよく見ます。作為がないから、笑いの初心に帰れる。そうそう最近、久しぶりに心から大笑いしました。座敷のある店で友達の恋愛相談にのっていたら、こっちに背を向けて座っている男性のズボンがずり下がり、お尻が半分以上見えていて。


そういう単純な、どうでもいいことを日常のなかに見つけて大笑いすること、案外大事だと思うんです。アメノウズメが裸で踊ったら、閉じこもっていた神様が笑いながら出てきちゃった、みたいな。笑いは人間の根源的な感情と最も深く結びつくものだから。


社会の歯車となるために、笑うんじゃない。自分の人生を生きるために、自分の笑いを取り戻しませんか。