ペットになった女たちが再生産する女性差別

愛という名の支配 (新潮文庫)

田嶋陽子『愛という名の支配』(新潮文庫、2019年)より。

※強調・下線は引用者

「女はペットとおなじだと言われて、「でもそれでも、あんなにペットは愛されているじゃない」と言う人もいるでしょう。近ごろは病院で手厚い看護も受けられるし、おいしいキャット・フードの食べすぎと運動不足のために太りすぎて早死にしてもお墓までつくってもらえる。冬には毛糸のチョッキまで着せてもらっているのを見てると、たしかに大事にされてはいますが、あなたは、ああなりたいと思いますか? あれは女が置かれている状況とおなじです。あの犬や猫の受けている愛が、これまで女のほしがってきた愛なんですよね。でも、捨てられたら、それで終わり」(p.136)

 

「これは私の経験なんですが、私は中学生のころ、猫が大好きで、猫を飼っていました。その猫はさみしい私の心のよりどころでした。ところが、その猫が皮膚病にかかったんです。そうしたら、うちの母が「猫を抱いて寝ると結核になるから、抱いちゃいけないよ。ふとんに入れたらいけないよ」とくり返し言いました。あんまり言われて、私もだんだん気持ちわるくなってきて、ある日、足元からふとんにはいってきた猫を蹴りだしたんです。二月の寒い時季だったので、猫もしつこく何回もはいってきました。そのたびに足で外に出していたら、あきらめたらしくて、階下に降りていきました。そうしたら、翌日、その猫が近所の畑のなかで死んでいたんです」(pp.136-137)

 

「泣かないでこの話ができるようになるには何年かかったことか。私は、猫地蔵をつくりたいくらい、罪の意識で、ほんとうにつらい思いをしました。いまでも猫を見ると、私の胸は痛みます。あんなに私をなぐさめてくれていた猫なのに、病気になったら治療も受けさせてもらえないまま、蹴りだされて死んだのです」(p.137)

 

「むかし、女は、「子なきは去る」とか、結核にかかったら離婚されるとか、猫が私に蹴りだされたのとおなじように、役に立たなくなったら婚家から追い出されました。いまは、勝手に離婚したら慰謝料をとられるので、男はほかに女をつくってもかんたんには離婚しませんが、むかしもいまも女の置かれた状況はたいして変わっていないのです」(p.137)

 

「ところで、蹴りだしたほうは、尽くしてくれた相手のことが忘れられずに、自分の非情を恥じて罪の意識に泣く人もいます。あんなに俺に愛を与えてくれたのに、申しわけないことをした、と。私もその猫のことを詩にも書いたし、小説にも書いた。それでも、猫は死んで、いない。

 だいたい、十九世紀のフランスの小説はみんな、これです。男は、自分の浮気は女に認めさせますが、女の浮気は許そうとしません。ほかの男と情を通じた女をこれでもかこれでもかと痛めつけます。それなのに、女を死なせてしまうと慚愧の念に耐えかねて、その女を泣きながら回顧する。あんなに自分を愛してくれた女を死なせてしまった。なんてかわいそうなことをしてしまったんだろう、と。デュマにしろモーパッサンにしろゾラにしろ、みんなこれですね。『椿姫』『女の一生』『ナナ』、そしてメリメの『カルメン』などみんなそうです。こういった小説は邪険に扱った女への追悼小説であり、同時にそんなすばらしい女を惚れさせた作家の自慢話だとも言えます」(pp.137-138)

 

「ところが、愛が女の生き方だと刷りこまれている女たちは、こういった小説を読むと、「あんなに男に恋されてみたい。ああいうふうに愛されるんなら、もう、死んでもいい。殺されてもいい」となってしまうわけです。男によってしか生かされることを知らない人は、もうひとつ、いのちの大切さを、自由の大切さを知ることができません。受け取る側にしっかりした自分がないと、小説から逆のインフォメーションを得ることになってしまう。女性差別から生まれた小説を読んで、女みずから差別を再生産する方向に行ってしまうということです」(p.138)