「バカ」でもなれる大学教師

「おじさん」的思考 (角川文庫)

内田樹『「おじさん」的思考』晶文社、2002年(ハードカバー版)より。

 

「教師に成績査定や単位認定の権利が与えられているのは、教師が「知のありかを知っているもの」とみなされているからであって、その逆ではない。

 もちろん現実には制度的権限だけでかろうじて学生を威圧している無能な教師はいくらでも存在する。しかし、学校の本旨に即して語るならば、学生たちは、「知のありか」を求めて大学に来るのであって、無知なのに威張っている人間に隷属するために大学に来るわけではない。

 もし、教師の本質を構成するのが制度的な権力であるというのがほんとうであれば、成績査定権を賦与されたものは誰でも教師としてやっていけることになる。

 しかし、現実にはそうなっていない」(p.46)

 

「学生たちが大学に来るのは、そこにゆけば「自分に欠けているもの」を満たしてくれる「知者」に出会えるだろうという期待を持っているからだ(期待は多くの場合裏切られるが)。それでも、教師が「知的であること」(少なくとも「知的に見えること」)に命がけであるような特異な性向を刻印された人間である限り、「知者であろうと熱望するもの」たちの欲望の対象となりうる。かりに教師が十分な学術情報やスキルを所有していなくても、「自分が十分な学術情報やスキルを所有していない」ことに鋭い痛みと恥を覚えているならば、その「他者の蔵する知への欲望」の激しさにおいて、「『他者の蔵する知への欲望』を欲望する」学生に強い学びの動機づけを与えることができる」(p.49)

 

「だから、極論すれば、大学教師であるためには「バカであること」は障害にならないのである。「バカであることを恥じている」だけで十分なのである。なぜなら、学びの場を駆動しているのは、「知そのもの」ではなく「知への愛」だからである」(p.49)