孤独がつらいと感じている人たちへ

愛と孤独

クラーク・E・ムスターカス『愛と孤独』創元社1984年より。

※下線・強調は引用者 

 

孤独とは、ひとりで生き、存在し、死ぬことの苦しみを体験することであり、また、静寂の中で生かされていることの美しさと、喜びと、驚きに目醒めることである。ひとりとは、たいてい過去や未来にまたがった中間的な状態であるが、孤独とは、常に生命に直接、今、ここで関わっている状態である。ひとりとは、自分に没入していることである。孤独とは、自分と共にありながら、さらにそれを越え、新しい自己を創造しようと激しく一瞬に生きることである。(p.23)

 

孤独に対する不安とは真の孤独ではない。それは、生と死の重要な問題に直面することを避けるために、絶えず他人との関わりを求め、忙しく立ち働いて、本質的な孤独を打ち消そうとする防衛から生まれるものである(pp.23-24)

 

孤独になると、自己の本質の部分が突然脅かされ、転向を迫られ、拒否されるように感じられる。このような時には、逃げることなく孤独の中に身を沈め、なすがままに任せておくこと以外には、生活の調和と統一を取り戻すすべはない。そのようにして初めて、人は新たな自分として、広い心と自発性と自己信頼感を持って、再出発することができるのである。私はひとりぼっちの時も危機的な時も、孤独をあるがままに体験することを受け入れ、評価し、黙って認めている(p.25)

 

周りの世界が冷たく無意味にしか感じられないような時、また、人波に呑み込まれ、その対応に忙殺させられるような時には、孤独にひとり身を任せることで人は本来の自分に帰っていくことができる。孤独にひとり身を任せることは、群居することと同じく人間本来の要求である。隠者や孤独な思索家、孤高の精神の持ち主や世捨て人などは、現代社会においてはしばしば奇異の目で見られる。しかし、彼らは自分自身との対話を行なう人々であり、それゆえ真の意味で健全な人々である。逆に、過度に社会適応を求めたり、常に人との交わりを求めたりする行動は、本当の自分に気づくことに対する恐れと、周囲に遅れをとるまいとする不安とに動機づけられている場合が多い。社会化されてしまった人間は、より深い自覚を持とうとしたり、いわく言い難い素晴らしい神秘に関与しようとする勇気に欠けているのである(pp.48-49)

 

さみしさを体験し、孤独に身と任せることは、容易な道ではない。必然的に、これまでの安定した生活パターンが崩され、人生の意味や真実に対しての疑問や疑いが湧いてきて、自分自身に対していかに純粋であったかということ、つまり、生き方が問われてくるのである。日常の決まりきったことから解き放たれ、人生の空しさを突然知ってしまうと、人は落ち着きを失い、つらい倦怠感にさいなまれる。そのような時、麻薬やアルコールで、これまでの人生のさみしさやつらさから逃げようとする者もいる。しかし、もし自分自身に至る道をまっすぐ進み、その道に踏みとどまろうとするならば、自分自身のさみしさに向き合い、孤独に身を任せねばならない(pp.69-70)

 

ひどく打ちのめされるようなことがある時、人はいつも自分自身に帰っていこうとする。究極的には、人はひとりだからである。真実に直面し、突然バランスを失い、自己疎外感・恥・偽善などに苦しめられる時、たどるべき道は自分自身への道しかなく、意味あるものは、沈黙と絶望の中で目醒める心の真実以外何もない言葉や感情が武器として向けられ、その鋭い痛みに苦しめられたり、人と人との間に有意義な心の橋を渡そうとした愛が失敗してしまったような時は、自分自身の心と宇宙の神秘的な力にしかエネルギーの源はない。ひとりぼっちで、孤独な自分の中にしか、いのちの泉はないのである。さみしさに襲われる時、自分自身に戻っていくことは、人々の輪の中に帰っていく準備を整えているのである(p.72)