「第三者から「生きる意味」の説明を求められる筋合いはない」(荒井裕樹)

障害者差別を問いなおす (ちくま新書)

荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』ちくま新書、2020年より。

※強調・下線は引用者

 相模原事件の被告人は、重度障害者は不幸を作り出すことしかできず、意志疎通のできない障害者は「人間」とは見なしていない旨の発言も報じられています。

 この被告人は、障害者の生きる意味を平然かつ露骨に否定しました。またSNSなどでは、彼のそうした価値観に同調したり、あまつさえ支持したりする言葉も現れました。

 「障害者には生きる意味がない」というフレーズは、実は、まともに反論しにくい、極めて厄介な性質をもっています。というのも、「障害者には生きる意味がない」というフレーズに正面から反論しようとすると、反論者側に「障害者が生きる意味」の立証責任が生じてしまう(かのように錯覚させられてしまう)からです。

 そもそも、「人が生きる意味」について、軽々に議論などできません。障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を簡潔に説明することなどできないと思います。「自分が生きる意味」も、「自分が生きてきたことの意味」も、簡略な言葉でまとめられるような、浅薄なものではないからです。

 私は「自分が生きる意味」について、心のなかで思い悩んだり、大切な人と語り合ったりすることはあります。自分の生きがいについて、誰かに知ってほしくて、その思いを発信することもあります。

 しかし、私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはありません。また、社会に対して、それを論証しなければならない義務も負っていません。もしも私が第三者から「生きる意味」についての説明を求められ、それに対して説得力のある説明が展開できなかった場合、私には「生きる意味」がないことになるのでしょうか。

 だとしたら、それはあまりにも理不尽な暴力だとしか言えません。(pp.233-234)