死を語る際に見られる表現上の甘え(西部邁)

死生論

西部邁『死生論』ハルキ文庫、1997年より。

※強調・下線は引用者

物語を含め人間の推論過程にはかならず前提がなければならず、そしてその前提は、数学や(ある種の)詩のように高度の抽象に達しているものは別として、かならず意味さらには(意味の制度化されたものとしての)価値にかかわっている。ところが、それらの意味・価値はあくまで人間の生の局面において定位されるものであり、それゆえ、死の局面が物語・推論の主題となるとき、それまで確実と思われていた諸前提の意味・価値がにわかに無化される、そういう勢いになる

 それをよいことにして、死の物語にあっては、「死」という言葉をふりかざしさえすれば論理を大幅に逸脱することも許されるという具合になっている。語りえぬはずのことを語るのであるから、語りがどんなに乱脈であっても勘弁してもらえるに違いないという表現上の甘えが、死生観にかんする多くの書物に見られるこの甘えなくしては生者が死者の意を汲むことなどできそうにないとはいうものの、度を越した甘えは死者への冒涜になる。(pp.9-10)