「知識人は「言葉」という矛と「ルール」という盾をもって馳せ参ぜよ」(西部邁)

 

死生論

西部邁『死生論』ハルキ文庫、1997年より。

※強調・下線は引用者

 伝統解体を率先したのは知識人であり、その知識人が「自然」と「情愛」に溶け込むようにして死にたいものだと宣うている。これはあまりにも虫のよい言説というほかない。知識人にたいしては、自分の壊したものは自分で建て直せ、と要求すべきであろう。死の恐怖に怯え、母親の胸にすがりつくようにして自然や情愛に逃げ込もうとするようでは、知識人としての資格が問われる。知識人は死との戦いに「言葉」という矛と「ルール」という盾をもって馳せ参じる責任があるというのもこの戦いをことのほか困難かつ陰惨なものにしたのは知識人なのだからである。知識人とて死の恐怖にとらわれるであろうが、そこで孤独を嘆く資格も孤独から逃避する権利も彼らには与えられていない。またそう自覚しておくことが、知識人によって創られた近代が知識人をも嚙み砕くまでに異常成長を遂げたこの世紀末にあって、知識人がおのれを鼓舞するための唯一の方策なのだとも思われる(pp.171-172)

「自分自身が人生の問いに向き合っていない人は、教壇に立つ資格はない」(諸富祥彦)

教師の資質 できる教師とダメ教師は何が違うのか? (朝日新書)

諸富祥彦『教師の資質―できる教師とダメ教師は何が違うのか?』朝日新書、2013年より。

※強調・下線は引用者

 子どもたちは、いじめのアドバルーンをさりげなく揚げて、「その一瞬に教師がどう出るか」を見て、教師の“本気度”を試しています

 たとえば、授業中に、ほかの子を、教師が見ている前でからかい、その反応をうかがいます。たとえば、いじめられている子どもが発言したとき、数名の子どもが「すげー」などと言って冷やかします。

 このような場面に直面したとき、教師がどう出るか――それを子どもたちは“観測”しているのです。

 そしてそこで、教師が何の指導もしなければ、子どもたちは、「この先生は、冷やかしを容認した」と理解します。そして、いじめの続行にGOサインを出すのです

 教師の力量と本気度が試されるのは「この瞬間」です

 「この瞬間」にたとえば、教師が、「ちょっと待て。今のはどういうことだ」と授業を中断し本気で注意を与え、「この先生は、いじめやからかいを本気で止めようとしている」という教師の本気度が子どもに伝わったとしましょう。そのときはじめて、先生の注意はいじめの抑止効果を持ちえます。

 しかし逆に「おいやめろよ、そこー」と中途半端な姿勢でしか注意しないでいると、結果的にいじめにGOサインを出したようなものです

 子どもたちの心ない発言ややりとりに、教師は慣れてはいけません

 自分は感覚麻痺に陥ってはいないか、絶えず、自己吟味していかなくてはならないのです。(101-102頁)

  

 四月時点での、授業中の「ちょっとしたざわつき」を止めていないと、五月、六月になっても、絶えずどこかで、ざわざわが途切れないのがクラスの当たり前になってしまいます。この「感覚の慣れ」が怖いのですそれによって、常態化した「ざわつき」が、早ければ六、七月、遅ければ一〇月、一一月になって「爆発」します。その結果すっかり自信を失くした担任教師を「もういっそ、辞めてしまいたい」という気持ちが襲うのです。(130頁)

 

 子どもたちに「答えなき問い」を「自分自身にとってののっぴきならない問い」として引き受けてほしいと願うのならば、当然のことながら、教師が自分自身を「世界からの問い」の前に開き、それを「自分自身にとってののっぴきならない問い」として引き受けなくてはなりません

 教師自身が、自分の人生や世界とのかかわり方を、変えていくのです。

 これが、本書で提示する最後の「教師の資質」です。

 すると、どうでしょう。

 たとえば、テレビでニュースを観ているとき……。

 たとえば、新聞を読んでいるとき……。

 たとえば、日々の暮らしの中でふと疑問を感じたとき……。

 そこで感じた疑問を、世界のさまざまな問いを、教師自身が、自分とは無関係なこととして退けるのではなく、自分自身にとっての、のっぴきならない問いとして引き受け、考え続けること。

 このことが、「教師として持つべき生きる姿勢」となるのです。

 このような姿勢を、教師一人ひとりが持ちながら生きているかどうか。教師自身が、自分も真剣に問うていない問題を、子どもたちに向かって「あなたたち、考えなさい」と言っても、それでは絶対に伝わりません

 教師自身が十分に、考え抜いたうえで子どもたちに提示して、問いははじめて伝わるのです

 言葉を代えれば、人間が生きていくうえで、向き合わざるをえない課題と、まず自分自身が真剣に向き合って生きているかどうか。自分自身がひとりの人間として真摯に向き合っていないのに、子どもたちに人生と真剣に向き合え、と言っても、それは無理でしょう。

 自分自身の人生を本気で生きていない人、この世界が自分たちに問いかけてくる課題、人生が投げかけてくる問いに真剣に向き合っていない人は、教壇に立つ資格はないとさえ思います(224-226頁)

「言葉とは交換価値ではなく絶対的な価値」(池田晶子)

41歳からの哲学

池田晶子『41歳からの哲学』新潮社、2004年より。

 ※強調は引用者

 言葉なんて、タダだし、誰でも使えるし、世の中は言葉だらけだし、なんでそんなものが価値なのだと、人は言うだろう。しかし、違う。言葉は交換価値なのではなくて、価値そのものなのだ。相対的な価値ではなくて、絶対的な価値なのだ。誰でも使えるタダのものだからこそ、言葉は人間の価値なのだ。安い言葉が安い人間を示すのは、誰もが直感している人の世の真実である。安い言葉は安い人間を示し、正しい言葉は正しい人間を示す。それなら、言葉とは、価値そのもの、その言葉を話すその人間の価値を、明々白々示すものではないか。(p.67)

 

 だから人は言葉を大事にするべきなのである。そのようにして生きるべきなのである。自分の語る一言一句が、自分という人間の価値、自分の価値を創出しているのだと、自覚しながら生きるべきなのだが、こんなこと、きょうびの人には通じない。言葉はタダだから使いたい放題とばかり、安い言葉、くだらない言葉の垂れ流しである。もともと実用の具であったはずの携帯電話も、料金が安くなれば、ありがたい。用もないのに電話をかけて、いよいよ安い言葉を垂れ流す。人はそれで得をしたと思うのらしいが、自ら安い人間になることが、どうして得をしたことになるのだろうか。くだらない人間になることが、どうして得なことなのだろうか。私には全く理解できない。(pp.67-68)

「傍観者の視線が逸脱を増幅させる加害要因にもなりうる」(徳岡秀雄)

命題コレクション 社会学 (ちくま学芸文庫)

作田啓一・井上俊編『命題コレクション社会学筑摩書房、1986年より。

 

11.ラベリングと逸脱(H・ベッカー他)

 1.人が逸脱者というラベルを貼られるのは、逸脱行為のゆえにというより、社会的マジョリティによって定められた同調・逸脱に関するルールが恣意的に適用されたためである。したがってこのラベルは、とりわけ社会的弱者に対して適用されやすい。(セレクティヴ・サンクション)

 

 2.人は、他者によって逸脱者というレッテルを貼られ、他者から逸脱者として処遇されることによって、逸脱的アイデンティティと逸脱的生活スタイルを形成する。(アイデンティティ形成)(p.73)

 

伝統的実証主義者たちは、見えたことは客観的真実だと主張するが、ラベリング論者たちは、見ようとしたからその事実が見えたにすぎない、と「視線」を問題にする。そして第三者的に傍観してきたはずのわれわれの視線が、逸脱を増幅させる加害要因にもなりうるのだという危険性を思い知らさせてくれるのである。(p.79) 

「世の中には、世の中には役に立たないことをする人が必要」(池田晶子)

41歳からの哲学

池田晶子『41歳からの哲学』新曜社、2004年より。

※強調・下線は引用者

 学問というものが、本来、役に立たない金にならないのは当然なのである。また、ある意味でそれが閉鎖的に見えるのも、当然なのである。世の全体が、役に立つこと金になることを価値と信じて走っているところで、なんでそれらが価値なのか、そも世の中とは何なのかを、考えるのだからである。そうと信じ込まれている事柄を疑うことが、その事柄にとって役に立つことであるわけがない。(p.70)

 

 世の中には、世の中には役に立たないことをする人が必要なのである。そのような人こそが、本当は役に立つのである。「無用の用」、役に立たないことを考える人がいなくなれば、世の中どうなるか、明らかであろう。金もうけに奔走しながら真理を見失い、今や人々、自分が何のために何をしているのかを、全く認識していない。(pp.70-71)

 

 学者を大事にしない国は滅ぶと、孔子先生は言った。真理の喪失だからである。産学協同など馬鹿言っちゃいけません。科学という、もう一方の真理追求の学問ですら、金にならない分野は切捨てられてゆく。(p.71)

「自分を認めるために他人に認めてもらう必要はない」(池田晶子)

41歳からの哲学

池田晶子『41歳からの哲学』新曜社、2004年より。

※強調・下線は引用者

 経済効率第一主義と対になるのは、情欲獣欲第一主義である。なんと貧しい我々の文明。文明など知ったことか。居直ってもダメである。空しいのはあなたである。

 出会い系にせよ、ネットチャットにせよ、なぜ人は、さほどにまで他人を必要とするものだろうか。「人とつながりたい」「自分を認めてもらいたい」というのが、ハマる人々の言い分である。しかし、自分を認めるために他人に認めてもらう必要はない。空しい自分が空しいままに、空しい他人とつながって、なんで空しくないことがあるだろうか。人は、他人と出会うよりも先に、まず自分と出会っていなければならないのである。まず自分と確かに出会っているのでなければ、他人と本当に出会うことなどできないのである。(pp.46-47)

 

 見も知らない人と、愚にもつかない話をするよりも、得体の知れない人と、無体なセックスをするよりも、独りでいる方がいい。独りで自分と話している方が、はるかに豊かである。それを知らないのは、楽しみや喜びというのは、全部外界にあるものだ、外界から与えられるものだと、深く思い込んでいるからである。家に引きこもって、パソコンだけで人とつながっている人とて同じである。他人によらなければ、自分の存在理由(レーゾン・デートル)が見出せないのである。(p.47)

「第三者から「生きる意味」の説明を求められる筋合いはない」(荒井裕樹)

障害者差別を問いなおす (ちくま新書)

荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』ちくま新書、2020年より。

※強調・下線は引用者

 相模原事件の被告人は、重度障害者は不幸を作り出すことしかできず、意志疎通のできない障害者は「人間」とは見なしていない旨の発言も報じられています。

 この被告人は、障害者の生きる意味を平然かつ露骨に否定しました。またSNSなどでは、彼のそうした価値観に同調したり、あまつさえ支持したりする言葉も現れました。

 「障害者には生きる意味がない」というフレーズは、実は、まともに反論しにくい、極めて厄介な性質をもっています。というのも、「障害者には生きる意味がない」というフレーズに正面から反論しようとすると、反論者側に「障害者が生きる意味」の立証責任が生じてしまう(かのように錯覚させられてしまう)からです。

 そもそも、「人が生きる意味」について、軽々に議論などできません。障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を簡潔に説明することなどできないと思います。「自分が生きる意味」も、「自分が生きてきたことの意味」も、簡略な言葉でまとめられるような、浅薄なものではないからです。

 私は「自分が生きる意味」について、心のなかで思い悩んだり、大切な人と語り合ったりすることはあります。自分の生きがいについて、誰かに知ってほしくて、その思いを発信することもあります。

 しかし、私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはありません。また、社会に対して、それを論証しなければならない義務も負っていません。もしも私が第三者から「生きる意味」についての説明を求められ、それに対して説得力のある説明が展開できなかった場合、私には「生きる意味」がないことになるのでしょうか。

 だとしたら、それはあまりにも理不尽な暴力だとしか言えません。(pp.233-234)