齋藤孝『読書力』(岩波新書、2002年)書評

読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)

ベストセラー『声に出して読みたい日本語』(草思社)の著者による読書論である。読書に対する著者の立場は明快である。「本を読むか読まないかは個人の自由」という意見に対して、著者は反論する。いや、読書は是非ともしなくてはならないものなのだと。本書では読書の効用を大きく二つの点から論じている。一つは「自己形成としての読書」、もう一つは「コミュニケーション力の基礎づくりとしての読書」。どちらも重要な論点なので、自分なりにわかりやすい問いかけの形式にして議論をまとめる。

①読書は倫理教育の代わりになりうるか。

日本には、聖書のように唯一絶対の「the Book」がない。だから、「できるだけ多くの本、つまりBooksから、価値観や倫理観を吸収する必要」(46〜47頁)があった。キリスト教のような倫理の拠り所としての宗教がない日本では、大量の読書が重要な倫理を育んできたというわけだ。しかしこの論理にはかなり無理がある。キリスト教圏やイスラム教圏の人々が聖書やコーランだけを読んでいるわけではないのだから、日本では大量の読書が倫理教育に代替していたとは一概に言えない。さらに、日本人がその他の宗教圏の人々と比較して、一体どれくらい多くの読書をしていたのかの厳密な証拠はない。また、英語と日本語では、同じ長さの文章にこめられる情報量が全く異なると言われるが、そのような言語間の違いを無視して日本人の方が大量に読書していたと考えるのもおかしい。読書量などという曖昧な概念は、厳密な比較には向かないだろう。

②表現の多様さと思考内容は比例するか。

これはつまり、以下の著者の意見に賛成か否かと同じ意味である。

表現する言葉が単純であれば、思考の内容も単純になっていってしまう。逆にいろいろな言葉を知っていることによって、感情や思考自体が複雑で緻密なものになっていく。(66頁)

これは当たっているかも知れない。いろいろな表現の仕方、つまり言葉を知っていることで、いろんな視点から事象を説明できるし、描写に深みを与えることができる。そして、そのような語彙力は読書によって確かに伸びる。

語彙力の問題は、他者とのコミュニケーション能力にも大きく影響する。例えば、会話を弾ませる一つの方法として、相手の言ったことを違う言葉で言い換えて話すというものがある。

言葉を換えて同じ内容を言い換えることができれば、相手の言っている内容をしっかりと理解しつかまえていることが、相手側にもはっきりと伝わる。(154頁)

相手の話した言葉を自分の言葉でうまく言い換えることができれば、相手は「そうそう、その通り」となって話は弾むだろう。これはいろんな表現を知っている人ほど有利である。

③大量の読書は、現実を軽視する頭でっかちの人間を生み出すか。

確かにこういう人間もいるだろう。人より少し多くの本を読んだだけで、全てを悟ったように抽象的な議論をする人も確かにいる。しかし、一般的に、読書することと自分で実際に体験することというのは、全く矛盾しないというのが著者の姿勢。

読書を必要ないとする意見の根拠として、読書をするよりも体験することが大事だという論がある。これは、根拠のない論だ。体験することは、読書することとまったく矛盾しない。本を読む習慣を持っている人間が多くの体験をすることは、まったく難しくはない。むしろいろいろな体験をする動機づけを読書から得ることがある。(中略)それ以上に重要なことは、読書を通じて、自分の体験の意味が確認されるということだ。(84頁)

この意見には自分は賛成である。モノであれ社会現象であれ、ある対象を分析する際には理論と実践の両者が必要不可欠であるのと同様に、読書したからといってそれが現実軽視を意味するわけではない。もちろん先入観を植え付けるという可能性はあるが、それは読書に限ったことではない。むしろ読書を通して実体験も豊かになるという側面の方が大きいのではないだろうか。

もう一つ、自分が著者と意見を同じくすることがある。それは、本はどんどん汚すべきという考え。線を引きまくり、余白にコメントを書きまくり、重要な箇所には付箋を貼りまくる。これだけ汚されれば本も本望だろう。できる限り汚さないように読んで、読み終わったら古本屋に売るというのは、自分に言わせればモグリの読書人である。面白く読めた本ならなおさら手元にいつまでも置いておくべきである。著者も言うように、まっさらのまま読み終わる読書は極めて「無駄の多い読書」(138頁)なのである。

読書の効用を熱く語る本書は、明らかに言い過ぎだと思われる箇所もいくつかあったが、全体的な論調には概ね賛成である。自分も以前は「読書はしたい人だけがすればいい」と軽く考えていたが、読書というのは、実は極めて効率のいい情報獲得手段である(テレビを1時間見て得る情報量と本を1時間読んで得る情報量の差は歴然)ことを考えれば、「情報リテラシーを真面目に考えている人はやっぱり読書した方がいい」と考えるべきかも知れない。