竹内洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』書評

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

久々の当たり本である。中央公論社が読売新聞の傘下に入ってから、「中公新書ラクレ」なる新たな新書シリーズが始まり、新書全体に占めるジャーナリスティックな本の比率が高くなった。伝統的に歴史物に強い中公新書の質が下がらないかと心配していたのだが、本書に関して言えば、極めて質の高い教養書である。

教養主義」の定義は、「哲学・歴史・文学など人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度」(40頁)とされている。しかしこの教養主義は、大正から戦後に至るまで、何度も内部分裂や質的変貌を経てきたのである。「万巻の書物の前にひざまずく」ことを要求した大正教養主義の象徴的暴力、そうした象徴的暴力を逆手にとって優劣関係の転覆を可能にした「教養主義の鬼子」としてのマルクス主義マルクス主義をかいくぐることでより社会に開かれた昭和教養主義、戦後、新中間層(ホワイトカラー)の拡大に伴って広がった大衆的教養主義。しかしながら、これらの間には「教養主義」として一つに括ることのできる確かな共通性が存在した。それは日本に特有の「刻苦勉励的・農村的エートス」と「西欧文化志向」であった。

しかし大学紛争が終息して70年代以降になると、都市と農村の格差は失われ、「地方対中央、ムラ対都市、演歌対ポピュラー、大衆文学対純文学、大衆対知識人という近代日本の枠組みが終焉した」(219頁)。それに伴って、教養主義に対する冷めた目が広がった。

かつては教養主義の啓蒙的・進歩的機能が強いぶん、教養主義の(エリートのノン・エリートに対する)境界の維持と差異化の機能が目にみえにくかった。たとえ目にみえても自明で懐疑の対象とはならなかった。教養知が技術知と乖離し、同時に、啓蒙的・進歩的機能を果たさなくなることによって、こうした教養主義の隠れた部分、あるいは不純な部分が前景化したのである。マス高等教育の中の大学生にとっていまや教養主義は、その差異化機能だけが透けてみえてくる。あるいは、教養の多寡によって優劣がもたらされる教養の象徴的暴力機能が露呈してくる。いや大衆的サラリーマンが未来であるかれらにとって、教養の差異化機能や象徴的暴力さえ空々しいものになってしまった。(214頁)

著者は「大衆平均人(サラリーマン型人間像)文化と適応の文化(実用主義)の蔓延」(242頁)を嘆く。現代の資格に対する過剰な情熱は、たとえそれがどれほど取得困難な資格で、たとえ人がどれほど努力をしようとも、それはあくまで「適応」であって、教養における三つの作用(「適応」「超越」「自省」)のひとつにすぎない。そこで著者は、現代における教養主義の機能について再考してみる必要性を説くのである。

旧制高校教養主義をいまさらよみがえらせることは時代錯誤ではある。しかし、教養の意味や機能ということになると、旧制高校教養主義から掬いあげるべきこともある、とわたしはおもう。(242頁)

全くその通りだと思う。教養とは「役に立たない雑学知識」ではなく、分野の壁を越えるための理想主義の役割(「超越」)、そしてその理想主義さえも相対化し自己の正統性に疑問を投げかけさせる役割(「自省」)を担うものでなくてはならない。このことの意義は現代でも変わりはないと思う。