小谷野敦氏の「辞職顛末」
あるソーシャルネットワーキングサイトで、以前ここで書評を書いた『評論家入門』の著者である小谷野敦氏本人が、自らの阪大辞職についてその経緯を詳細に書いているのを見つけ、その内容があまりに衝撃的だったので、ウェブ上で小谷野氏の知り合いと思われる方を通して、本人からここに転載させていただく許可をもらいました。少し長いですが、以下に転載します。人名はイニシャルになったり実名のまま書かれたりしていますが、本人が書いている通りに転載いたします。
以前ここにも書評を載せた川成洋氏の著作にも、これに類したことが書かれていましたので、大学内部の暗部については初耳というわけではありませんでしたが、ここまで酷いとは正直思ってもいませんでした。情けなく、かつどうしようもなく恥ずかしいです。まじめに研究している人たちにとっては、この業界を就職先として選択するのを思いとどまらせるに十分な話です。拙ブログを読んで下さっている方々にもいろいろ考えていただければ幸いです。
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辞職顛末
1999年に、阪大を辞めた顛末は、簡単に「新潮45」に書いたが、もっと詳細な手記がある。これも、活字にしてもらえないものである。(イニシャルでも)よってここに連載することにする。
大学教師が、よその大学へ「移る」のではなくて辞職するというのは、どうやら異例のことのようだ。古くは夏目漱石が東大を辞めて小説家として朝日新聞社に入社した。それから、学生運動が盛んだったころは、それで辞める人が多かったらしい。梅原猛などもその時立命館大学を辞めて浪人している。中野好夫は、東大教授では食えないと言って東大を辞めた。佐伯彰一先生なども、同僚との確執で東京都立大学を辞めてカナダへ渡ったことがあるようで、その時は先行きに不安を感じていた、と書いているが、一年で東大教授になって戻ってきている。もう十五年以上前になるが、派手に「辞職」を敢行したのは西部邁先生で、その経緯は自らあちこちに発表してセンセーションを巻き起こした。あるいは奥本大三郎も、やや派手に、学生がバカで教える気にならない、と不満を活字にして横浜国立大を辞めたことがあるが、その後埼玉大教授になった。大月隆寛が歴史民俗博物館を辞めたのも、教授との確執があったようだ。
中には高島俊男先生のように、母親の介護で会議にも出られず、辞職を迫られて辞めた、というような例もある(『水滸伝と日本人』のあとがき参照)。あるいは言語学者の立川健二も、どうやら大学内のごたごたで文教大学を辞めたらしい(『ポストナショナリズムの精神』参照)。じっさいには他にも多くの無名の学者が、やむにやまれぬ事情で「辞職」をしているのだろう。問題は、その事情をどの程度自ら明らかにするかである。実は西部先生の辞職事件の際、私は先生の身近なところにいた。私はこの事件でかなりショックを受けたが、その際、東大の内情暴露を始めた先生に対して、組織内で苦しい思いをしている人はほかにもたくさんいるのではないか、先生一人がこの種の言論活動をするのはどうか、というようなことを直言して先生の怒りを買ったものである。
しかし、実際に自分が教員としての生活を始めてみると、なるほど例の「中沢事件」というのは西部先生にとって口実に過ぎず、それまで溜まりに溜まっていたものがあったのだなあ、と感じた次第である。もっとも、大学に限らず、企業でも官庁でも、組織というのはどこだって似たようなもので、官庁なら『お役所の掟』のような暴露本を出して、とうとうクビになり、病死してしまった宮本政於のような人もいる。で、図らずも私自身が大阪大学を辞職することになったわけだが、そこに至る経緯は、もちろん親しい人には話しているものの、どうもいろいろと誤解をする人がいるようなので、その事情を明らかにしておきたい。誤解というのは、もちろんいろいろあるけれども、困るのは「少しばかり本が売れたので評論家になるつもりだ」とか「問題を起こしてクビになったのだ」とかいうような誤解である。一応活字媒体で、同僚のイジメにあって辞めた、と言ってはいるが、「どうせ小谷野のことだから生意気なことを言ったりしたりして苛められたのだろう」などと思われるのも業腹である。
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私が大阪大学言語文化部へ赴任したのは一九九四年四月のことだ。言語文化部は、教養部から外国語の教師が独立してできたもので、その八年ほど前に、言語文化研究科という名の大学院を併設していた。英語二十人程度、ドイツ語十五人程度、フランス語五人程度、ロシア語四人程度、中国語二、三人、古典語一人という陣容で、ほかに外国人教官が十数名いた。
私は生粋の関東人であり、茨城県生まれ、埼玉県育ち、高校、大学は東京である。だから関西には縁がなく、殊に大阪はこの時まで訪れたこともない未知の土地で、それだけに不安を抱えての赴任だった。私は大学の近くの、八畳間にキッチン付きのマンションを借りて住んだ。就職の世話を橋渡ししてくれたのは、大学院の先で、ロシア語教官のY助教授だった。彼から、英語教室の教授のF氏に話が行ったらしい。で当然ながら、言語文化部の内情に関する情報は、当初もっぱらこのY氏から仕入れた。彼は、英語科の助教授、Wに気をつけろ、と言った。Wは当時三十六歳くらい、私より五つか六つ年上だったが、酒を飲むと荒れる、という話だった。Wは千葉大から東大の英文学の大学院へ進んで中世英語を専攻していたが、「関西は嫌いだ」と言い、酔うと人に絡み、「ぶん殴るぞ」と脅すという。Y氏は、フランス語のI助教授とWとともに、『南総里見八犬伝』を読むという勉強会をやっていたが、Wとの仲が険悪になったのでやめてしまったと言っていた。
それから半月ほど、英語科の新しい同僚たちと次第に顔なじみになってゆき、たいていは向こうから挨拶に来てくれたが、Wは来なかった。姿は目にしたが、私をほぼ無視していた。当時の私は、なんとかWとも穏当な関係を結ぼうと考えていたので、この仕打ちには少し困った。
四月の末に、私の歓迎パーティーが開かれた。場所は英語教官の控室である英語資料室だった。人付き合いの苦手な私だが、この時は、何とか職場に溶け込もうと努めていた。その前に教授会で短い挨拶をし、このパーティーではやや長めな挨拶をした。宴果てて、 二次会だというので大学の外へ出て、飲み屋へ行った。顔ぶれは、その年の英語科の主任のSY教授、その年を最後に定年になる斎藤衛教授(あえて実名にする)、東大出身で四十代前半のHM助教授とKS助教授、阪大出身でWとほぼ同年のHN助教授、去年から来たというIY講師、英国人のP・H講師、そしてWだった。始めは一人、三十代の女性助教授もいた。
始めの二次会の席では、斎藤、W、HNが向こうのほうに陣取っており、ほとんど私とは言葉を交わさなかった。ただ、SY氏が私の書いた男女論について何か言い、私が答えたとき、斎藤が、「そんなことは百人くらいやってから言え」と野卑な野次を飛ばした。 私は、笑みを浮かべて黙殺した。
その席を離れるとき、Wが前を通ったので、私は、W先生、と声を掛け、大阪が嫌いだそうですね、と言った。Wは、いや、阪大が嫌いなの、その話は後でね、と言って通りすぎた。
女性助教授が帰って、男九人でまた別の、小振りの店へ入った。私はこういう酒席のはしごは嫌いだったが、我慢した。小さな畳敷きの上に、ぎりぎり一杯のテーブルが置かれ、私の左隣に斎藤、前にHN、右にP・H、右斜め前にSY、左斜め前にWが座った。私 は専らSM、H・P、SY、HNなどと言葉を交わしており、Wは依然私と話そうという気配を見せなかった。私は些か焦りを感じた。この男は、よく知らない私に何の含むところがあるのだろう。その内、Wは、まるで独り言のように、「前田愛(よしみ)が死んでて良かったね」と言った。
これは明らかに私に対する厭味であった。私がその四年前、修士論文を『八犬伝綺想』という本として出したのに対し、『八犬伝』を論じると予告しつつ死んでしまった前田愛の名前を出して厭味を言ったのである。私はこれをも黙殺すべきだったのかもしれない。しかしいずれにせよ同じことだったという気はする。私はWと何とか友好な関係を築こうとした。そして少したって、W先生、さっき何か捨てぜりふを、と言ったのである。Wは、なに捨てぜりふって、それって喧嘩に負けたモンのせりふのことじゃないの、と言った。いや、そうじゃなくて、歌舞伎でいう、ふっと口にするせりふのことで、と私は何とか友好的な雰囲気を保とうとした。目を据えたWは、僕にからまない方がいいよ、と言った。HNが、よせよせ放っとけ、と顔つきと手で私に合図した。
しかしWは爆発した。ドスを利かせたヤクザのような口調で、私を罵倒したのである。P・Hが「Don't worry 」と囁いたので、大丈夫分かってますから、と言うと、何が分かってんだよ、とWは叫んだ。
一瞬だけWの爆発がやんだが、私が斎藤と話をしながら、煙草の火をつけると、再度罵声が飛んできた。なんだその態度は、あと一年で退官になる先生と話しながら煙草すぱーっなんて吹いやがって。さっきのスピーチはなんだよ長々と、教授会のはいいよ、けどその後だよ、よろしくお願いしますって言っときゃいいんだよ、おめえ自分が一番頭がいいと思ってんじゃねえの、馬鹿じゃねえの。まだ何もここのこと知らないんだろ、なんだよ分かってますって。だいたいねえ、初めて来た時ってのは、こんな、こんな(と体をすぼめて)小さくなって黙ってるもんなんだよ、何だよてめえは。
周囲は静まり返ったが、SYは、やめようよ、と言いながらげらげら笑っていた。P・HはWの後ろへ回って、肩を揉んで押し止めようとした。しかしWの罵倒、いな恫喝はやまなかった。私が煙草を吸ったことをさしてP・Hは、問題ない問題ない、と言ったが、うるせえ日本じゃ問題あんだよ、とWは言い返しながらも鉾先は飽くまで私なのだった。Wは私の本を罵り、僕、君の本なんかびりびりに破いて捨てちゃったもんね、高田衛も川村二郎も何も言わなかったでしょ。内容についての罵倒が続き、僕はね、君なんかが生まれる前から『八犬伝』読んでるんだからね。
要するにこの男は、自分が関心のある対象について自分より若い者が本を出したことに嫉妬していただけだったのである。けれどそのうち不思議なこともWは言いだした。みんな僕が来たときこうなるのは分かってたんでしょ、僕今日は勉強しようと思って部屋にいたのに、斎藤先生がどんどん戸を叩いて来いって言うから、仕方なく来たんだ、こういう役割はいつも僕なんだよ。
むろん私は怯えた。生来無口で人付き合いの苦手な私は、就職するからにはそうも言っていられまいと、なるたけ口を利くように努めてきたのだ。それがいけなかったのか、と思い、斎藤、KSなどに向かって、すみません、みなさんが優しくしてくださるので、調子に乗ったかもしれません、などと言った。斎藤は、こう言った。君が来るについちゃあ、比較文学ということで、どういう人が来るかみんな不安だったんだよ、地味な職場だからねえ、東京の私立じゃないんだから、タレントみたいになられちゃ困るんで、Fは甘ちゃんだから何言ったか知らないけどね。
この発言には注釈が要るだろう。本を出すほかにも、私は『批評空間』という雑誌に評論を投稿して掲載されていた。斎藤にとっては、それが「タレント」への方向だと思われたらしい。この斎藤という老教授は当時一冊も著書がなく、別の教授はそのことをさして、本なんか出さないのが本当の学者だ、と言っていたらしい。F教授は、確かに私に、どんどん活躍してください、と言っていた。このF−斎藤は、同じシェイクスピア学者として犬猿の仲だったようだが、そういう派閥争いに私はいきなり巻き込まれたようだった。 少しWが落ちついた所で、P・HはWを「とても純粋な人だから」と言った。それはまるで、動機が純粋なら人殺しも許されるという右翼の論理のようだった。KSは、これはうちの鉄砲玉でね、と言った。それはまるでヤクザの言い方だった。そのうちWは私の隣へ飛んできて、君が憎くて言ってるんじゃないの、君を見てると自分を見てるようなんだよ、実るほど頭を下げる稲穂かなって言葉があるの、知らないでしょ、えっ、知ってる? そんな態度じゃねえ、ここでやっていけないよ。三年は黙ってるんだよ、三年たって助教授になったら何か言えばいいよ、そしたらみんな君の言うこと聞くよ。
そのまま、もう一軒行こうということになった。私は帰りたかったが、それが許される雰囲気ではなかった。KSは私を哀れむような目で見て、まあ運命だと思って、と言った。次の寿司屋へ移ったとき、Wは私を見て、なに怯えてんだよ、と言い、HNが、誰かて怯えるわ、と言った。私には事情がよく分からなかった。なぜこのような男が学者をやっているのか、そしてなぜみんながそれを承認しているのか。それはほとんど強姦に等しい行為だった。
ようやく解放されて部屋へ帰った私は、一晩ついに眠ることができなかった。翌日からゴールデン・ウィークだったので、早朝の新幹線で埼玉の実家に帰った。だが私の心のざわめきはやまなかった。連休が明けて大阪へ戻り、HM氏に会うと、おっ、よく帰ってきたねえ、いろいろあったのに、と言った。
その直後、教授会に出席していると、Wが飛んできて、ごめんね、ごめんね、と謝った。だがこいつの謝罪など何の意味もないのである。
夏休みまで、私はWに怯えながら過ごした。夏休みで実家へ帰ったときから、私は眩暈に襲われるようになり、自律神経失調症と自己診断したが、それは次第に強烈な不安神経症に変わっていった。そのすべてがWのせいとは言わないが、要因として大きかったことは確かである。英語教室では歓迎とか歓送とかでパーティが多く、そのたびに私はWを恐れた。
Wの恫喝は、ほぼ背後に斎藤の示唆があったことは分かった。けれど一年経って斎藤が退官しても、Wは相変わらずで、今度は評議員の今井教授(ここもあえて実名にする)に近づきはじめた。これがWの手なのである。力のありそうな教授に擦り寄って支持を得ておいて、他の者に脅しをかける、虎の威を借る狐である。もっともその容貌は、猪に似ていたが。さらに、女性のいる場所では決して荒れない(その後この原則は破れる)。「殴る」とか「ぶっ殺す」とか口にしながら決して手は出さない。出せばはっきりと問題になるからだ。極めて狡猾なのである。
ほどなく、FK助教授がアメリカ留学から帰ってきた。聞くところでは、FK氏もWの恫喝にあっていて、HM氏と資料室で呑んでいたら、酔ったWが入ってきて、ぶっ殺してやる、といって騒いだそうだ。またNT助教授は、あまりパーティなどに来ない人だったが、ある時、君、例のWに何かされたんだって、と私に訊き、僕のところへも脅迫状らしきものが来てね、どうも彼らしいんだが、あんなの問題だよ、と苦い表情で言い、僕は彼が酒呑み出したらいなくなるからね、と言った。
二年目になって、新人のYY講師が入ってきて、また歓迎会になった。YY氏もWのことは知っていて、大学から居酒屋に向かう途次、私はWに、YY君怖がってますよ、と言ったら、Wは、君らが何か言うからだろう、僕は別に君には恨みないからね、とくどくど言いはじめた。ではこの男が、酒を呑まなければいい人かというと、そんなことはない、というのがこの時分かったのは、僕は十年ここにいて、FKとかNTとかの人事もやってるんで、あいつら僕には頭上がらないんだよ、と言ったからである。NT氏はWより年上だった。FK、NT両氏には、Wは何か恨みがあるようだったが、詳細は分からなかった。ともかくこの男は、大学時代ラグビー部にいただけあって、上背があって肩幅も広く、それだけに恫喝が効果を持つのだが、人間関係についての発想も極めて体育会的、あるいは軍隊式であって、歳に関係なく長くそこにいる者がエラく、先輩の命には絶対服従しなければならないと思っているらしかった。その時人事の話になり、Wは、業績だけじゃなくてさあ、一緒に仕事のできる人かどうかってのも見たいじゃない、などと言ったのだが、自分が一番一緒に仕事をしたくない人間であることには気づいていない様子であった。 事実、私が恫喝を受けた例の飲み屋で、Wは、言葉の上で暴力を振るうことはなかったが、新人のYY氏を二回土間へ突き落とした。新人が来るといじめるか説教するかせずにはおれないらしい。
私が二回目に恫喝されたのは、私が教室会計をしていて、資料室のお菓子類を賄うための教室費を滞納している人の名をホワイトボードに書き出した時だった。Wは、これ書いたの君? と訊いて、そうだと言うと、ドスを利かせて、何でこんなことすんだよ、と言い、僕はいいよ、だけど年配の教授の名前とか、まずいよ、個人的に言うんだよ、と言った。
二年目、F教授が退官まで一年を残して辞め、FK氏、NT両氏も別の大学へ移った。後者の二人は、事実上Wに追い出されたようなものだった。
四年目に入り、私は母校から博士号を取得し、助教授に昇任した。Wの言う「三年」が過ぎたのである。私は、教室会議などでも発言するようになった。ところがこの頃、Wは、部長になった今井教授と協力して、デンマークのコペンハーゲン大学との学術交流に積極的に加担するようになってゆき、近いうちに英語教室主催で学会を開く、その事実上の責任者になったのである。
私が学者になってみて驚いたことの一つは、一部の学者が、むやみと学会やシンポジウムを開きたがるということであった。院生になったころ、シンポジウムというのはもちろんプラトンの対話編の一つの名でもあり、あるトピックについて議論することだと思っていた私は、学者のやるシンポジウムというのがそれとは似て非なるものであることを知った。要するに学者が「シンポジウム」と称して行うのは、研究発表を四つくらい続けてやるだけのことで、では質疑応答、議論に入りましょうという頃にはもう十分くらいしか時間が残っていないのである。これが図らずも時間切れになるのではなく、最初からそうなるように出来ているのであって、要するにその辺の学者に、丁々発止と議論をたたかわせる能力などないのであり、それができる学者は有名学者になってマスメディア主催のシンポジウムに出るのである。
しかしそういうこととは別に、通常の学会とは別に臨時のシンポジウムを主催し、会議録を出したりすることが、自分の名誉につながると考える学者というのがおり、これが自分の弟子や同僚に参加を半強要するのである。これがはなはだ迷惑である。こういう会への参加を要請されるのが、名誉であるか迷惑であるかは微妙なところで、あまり発表の場を与えられない院生の時や若い内はありがたいことが多いのだが、それなりに発表の場ができてくると、それほどの点数にならない学会参加は迷惑になる。
Wが主導しようとしたものは、そういう意味でほとんどの参加者にとって迷惑なものであった。まずデンマークとの学術交流とは言っても、英語教官は文学研究者と言語学者に大きく分けられ、これらを合わせてもなんだか会の性格が漠然としていて、共通テーマがない。要するにこの学会に参加しても大した点数にはならないのである。ただ、これを主導することによってWは、権力意志を満足させようとしたらしい。やたら張り切ってプログラムを作り、この人とこの人を組み合わせればパネルができる、とか言ってはしゃいでいた。
私も打診を受けて、じゃあこれこれでやってみましょう、ということになった。シンポジウムは一九九八年前半と定められた。ところが九七年の秋、調べはじめた私は、どうもうまく行かないことに気づいた。その上、英文科時代の教授であったE先生から便箋三枚にわたる手紙が来て、英文学会のシンポジウムに出てくれないか、と言ってきた。その手紙は、学生時代に私が提出したレポートが素晴らしかったのを覚えている、と懇切に書かれてあった。前英文学会会長からこう言われれば、お世辞でも嬉しいし、承諾した。しかしその学会と、Wの学会とがあまりに時間的に近かった。困惑した私は、参加を辞退したいとWに手紙を書いた。しばらくして返事があり、是非考え直してほしい、ということだった。やむなく私は、神経症のため過重な仕事ができない旨返事を書いて再度断った。
またしばらくして、英語資料室に、秘書の女性を除くと、私とWだけになった瞬間があった。早く逃げなければ、と思ったときには、もうWに呼び止められていた。
Wは、新聞か保険の勧誘員のように、小一時間私を説得した。私は、病気だから、と告げたが、聞く耳を持たなかった。その内、私のなかに怒りが沸き起こってきた。E先生は、君のレポートは素晴らしかった、という手紙を寄越した。それに対してこの男は、君の本なんかびりびりに破いたもんね、と言った男であり、もしかすると私を神経症に追い込んだ男である。なぜそんな男に協力しなければならないのか。暴力というのは、与えたものが忘れても受けたものは忘れない。私は断った。
少したって、今度は今井教授が、Wが是非出席してほしいと言ってるんですがね、と説得にかかった。堪り兼ねた私は、自分がWからどのような仕打ちを受けたか、話した。今井教授は斎藤のような男ではなかったので、そうですか、大変でしたねえ、と言い、考え込んだ。
その年も人事があり、Wが強く推す人物O氏が選ばれたが、ここでも一悶着あった。人事はたいてい文学か語学から取るので、まず取るべきジャンルの人だけで選考を行い、全体会議にかけるのだが、O氏に決まったあと、全体会議である教授が文句を言いはじめた。Wは、もう決まったことにそういうことを後から言いだすなんて、おかしくって聞いてられません、と言った。会議のあと、SY氏がこの教授に、なぜ後から言いだすのか、と問い詰めると、彼は、反対できない雰囲気だったんですよ、と力説していた。恐らくそれは、Wの無言の恫喝によるものだったのだろう。
一九九七年の暮れ、私は二冊の本を出した。その頃ほかの英語科の同僚も何冊か本を出していたので、当時の主任の発案で、その本を資料室に「教官著書」として置くことになり、私の本も置かれた。さらに一九九八年春ごろ、やはりある教授が新聞に文章を書くことがあり、資料室内のホワイトボードにそのコピーが張られた。私もその頃新聞に文章を書いたりしていたので、小谷野さんも張ったらどうですか、とある人に言われて、素直に張った。
Wの世話でその春から赴任してきたO氏は、ほとんどWの手下扱いされており、この時点でもなお、私に、シンポジウムでコメンテーターをやってくれないか、と打診してきたが、私は断った。
事件が起きたのは、京大での英文学会の一週間後くらいだから、五月の末だったのではないかと思う。その日は土曜日だった。同僚の家族に不幸があり、葬儀に出席して、その帰り、KS氏とともに大学まで帰ってきて、資料室へ二人で入っていくと、すぐに、「おや、小谷野の本がないぞ」とKS氏が言ったのである。確かに、本棚から私の本が二冊とも消えていた。反射的に私は、ホワイトボードに張ってある私の新聞記事のコピーを見た。そこには二枚のコピーがあったが、いずれも赤いペンでいたずら書きがしてあった。「モテネー」「ホーケー」「ドーテー」「バーカ」といった幼稚なものだったが、私の心はざわついた。実は一月ほど前にも、私のコピーが別の人のコピーの下に隠されるような形になっていたことがあったが、今回のはもはや明らかな嫌がらせだった。資料室の奥まで入ってみた私は、私の本二冊が、叩きつけるか足で踏みつけるかしたらしい形跡を止めて散らばっているのを発見した。KS氏は、まあ気にしないように、と言ってくれたが、結局ここから私の辞職への道がつながることになる。
とりあえず主任に報告しておいたら、とKS氏に言われて、私は本とコピーを主任のM教授のもとへ持っていき、事態を説明した。当然私は真先にWを疑ったが、数人の人に訊いてみると、「犯行」が行われたと推定される金曜日の夜遅くに、WがSY氏とともに泥酔状態でここへ来たことが分かった。M教授にはその点も話したが、同時に、もしこういうことがまた起こるようなら、私は辞職します、と伝えた。ともかくM氏は教室会議でこの件について報告し、情報を募った。こういうことは良くないので、徹底的に究明すべきだ、と言った人もいたが、Wは、僕あの晩あそこにいましたけど、と平然と発言した。
しかしどこからも有力な情報は得られず、夏休み前にM教授はこの件は打ち切る、と宣言した。ただその前、シンポジウムの後の懇親会の出欠を取る用紙が回ってきたとき、私は「断然欠席」と書いた。Wがこれを見て怒っただろうことは想像できる。以後、私とWの間には無言の緊張関係が続いた。けれど、シンポジウムには多くの人がしぶしぶ参加していたのがWには気に入らなかったらしく、次第に異常な行動が目立つようになった。会議の最中、人事の件で話し合っている時、Wは突然、自分は昔助手でここへやってきてなかなか講師にしてもらえず、同い年の人間が講師で採用されたのが不快だった、という怨みを並べ立てはじめたのである。その場の議論にはほとんど関係ないことだった。主任が、その当時不快な思いをしたと、そういうことですか、と訊くと、いえ、今でもです、今でも給料やなんかで差がついてます、などと言った。この男は、なんで他人の給料が分かるのだろう。
八月の末、私は自分の精神状態がかなりひどくなっているのに気づき、もう大阪にいたくない、と思って、雑誌で見た東京の大学の公募に四つほど応募した。その時はまだ、公募に落ちたら阪大に残るつもりだった。
しかし、九月の末、また事件が起こった。会議の際、こんどはフィンランドのある大学と学術交流をする旨の文書が配付され、その中に、このプログラムへの参加は強制されない、という一文があったのである。その説明があって質問を求められた時、私は立って、参加を強制されないということは確認してもらいたい、以前そういうことがあったので、と述べたが、たちまちWが立った。Wは、参加もしなかった人にそういうことを言ってほしくありません、と言ったあと、例のドスの利いた声で、ふざけんじゃねえ、と恫喝したのである。直ちに私は、そうやって人を恫喝するのはやめろ、と応じた。Wは、さらに興奮して、こないだのシンポジウムは、正当な理由があって参加しなかった人が二人いたけれど、他はみんな参加してくれた、参加しなかったのはお前だけだろう、それで反感買ってあんな事件が起こったんじゃないか、と言った。この男は私が病気だというのを信用していないらしい。けれど直ちに私は、お前がやったんだろう、と応じた。するとWは、やるかバカ、俺なら、殺すわ! と叫んだのである。
Wの罵倒はさらに続いた。果ては私が以前神経症が悪化して授業を半分くらいで切り上げていた時のことを罵るというありさまで、議長や主任が終わらせようとしても止まらなかった。遂にM助教授が立ち上がり、Wさん、やめましょう、やめましょう、と大きな声で言ったので収まったが、私は逃げるように自宅へ帰った。
落書き事件の犯人が誰かは、結局確定できなかったが、この発言で少なくともWが、私に対して、あれくらいされても仕方がない、と思っていることは分かった。かつ、殺すぞ、という発言は、脅迫である。
私が挑発したんじゃないか、と言う人もいた。確かに結果としてはそうかもしれない。要するに私はもうその職場にうんざりしていたのである。その後、部長のもとへ行ったWが、謝りたいと言ったところ、部長が、謝って済む問題ではないと叱責したとかいう話も聞いた。主任とも電話で話して、私はWへのなんらかの懲罰を求めたが、公的な懲罰の権限は総長にしかない、と言われた。かつ、落書き事件に関してWを問い詰めるよう要請もしたが、それはできない、と言われた。私は、現在公募に出しているが、Wがここにいる限り、公募のすべてに落ちたら辞職する、と伝えた。その時点では、もう一日たりと大阪にいたくなかったので、休職も考えたが、それは他の人の迷惑になるからと思い止まらされた。私は心身ともにぼろぼろになっていた。殺す、と言われた私は、しばらく大学へ顔を出せず、護身用に短い木刀を買った。
七人ほどの人たちが心配してくれて、総長に訴えようかと考えたそうだが、部長に止められた、と後で聞いた。今井部長が、「本をぼろぼろにした」という発言の件をWに糺すと、Wは研究室からその本を持ってきて、そんなことはしていません、と言った、という話を、私はM主任から聞いた。M主任は、現実に破ったかどうかではなく、そうしたと発言したことが問題なのだ、と今井部長に言ったそうだが、部長は、破っていないそうだ、と繰り返したという。この部長の感覚は不思議である。
結局私は年末までにすべての公募に落ちたが、もう阪大に残ることは不可能だった。M主任にその旨告げると、かなり慰留されたが、断った。先般51歳の若さで亡くなった広瀬雅弘氏は、私の決意が固いことを知ると、私の出身研究室の主任教授宛に、事情説明の長い手紙を書いてくれた。
私と同時に、言語学の方面で優れた業績を挙げているG教授も他の大学へ移り、その後も、それをきっかけにしたように、毎年のようによそへ移る人が出た。Wから距離を置くようになった新任のO氏は、助教授昇任が英語教室の会議で決まったが、正式決定の人事委員会でWが強硬に反対したため、昇任が流れたという。
今ならこういうのを「パワー・ハラスメント」と言うのだろうが、当時、そういう言葉はなかった。作家の南條竹則は、このWの友人らしく、南條の『酒仙』の新潮文庫版解説はこの男が書いている。坊主憎けりゃ袈裟まで、ではないが、こんな男の友人だというだけで、南條まで人格を疑いたくなる。『酒仙』の解説を「酒乱」が書いていたのでは、洒落にもならない。まあしかし、つまらん小説だった。
ところで、「袈裟まで」をさらにやるわけではないが、少女時代に父親から虐待を受けたある女性が、母親も憎んでいる。なぜか、と訊くと、暴力を黙認していたからだ、と言うのだ。DVに詳しいひとに訊いたら、まさにそういうものだ、黙認は暴力への加担にほかならない、と言った。ということは、最初の酒席にいて、Wをわざわざ呼び出して唆した斎藤衛はもちろん、他の連中も、私は憎むべきなのだということに最近気づいた。なかんずく、げらげら笑っていたSYは、悪質である。落書き事件の真相も、この男が知っているのではないかと、私は思う。
『恩讐の彼方に』という菊池寛の小説がある。しかしあれは、親の仇が、改心しているから許すのである。Wは改心などしていない。だから私は許さない。(結)