衛藤瀋吉・渡辺昭夫・公文俊平・平野健一郎『国際関係論』書評

sunchan20042005-03-27

国際関係論

国際関係論

※最近気づきましたが、このはまぞうのリンクは出版年が結構間違っているようです。この本も1989年と書かれていますが、自分が読んだ本の奥付には1982年と書かれていました。参考までに。

【研究ノート】

■国民・民族(エスニック・グループ)・国民国家の定義について

国民国家は、国民(nation)と国家(state)というもともと別個に発展してきた二つの概念の結合のうえに成り立っている。『生まれる』という意味の動詞nasciに由来するラテン語natioは、もともと出生地を同じくする一群の人々を指していた。つまりそれは『同じ毛色の人たち』というほどの意味であった。たとえば中世ヨーロッパの大学では、同一地方からの学生の諸集団がそれぞれnationと呼ばれたという。このように元来の意味でのnationとは、種々の理由で、或る文化的特色を共有するようになった同郷人の集合ないし民族のことに他ならなかった。

しかし、時とともにネーションという語は、特別の政治的意味を帯びた第二の意味で使われるようになっていった。すなわち中世的な議会や教会の会議などで一定の領域を代表する資格、ないしは代表者を選出する資格を持っていると自認する人々の集まりをそれは意味するようになった。十八世紀の革命論者たちが『主権は本来的にネーションに属する』という主張をしたとき、そのネーションとは王や貴族よりも広い範囲の人たちを指していた。有名なシェイエス(Emmanuel Joseph Sieyes, 1748-1836)の表現によれば『ネーションとは何か―それは一つの共通の法の下に生き、同一の立法府を代議機関としてもつ人々の集合体である』。つまり、この意味でのネーションとは特別の形態の政府をみずからの意志で選んだ人々の集まりであり、そのような形態の政府が、立法府をつうじて行政責任を負うべき対象となるべきだという共通の認識をもった人々の集まりがネーションということになる。今日、たとえば『国民不在の政治』などというときの『国民』がこの意味でのネーションである。

ところで、第一の意味のネーションは、その語によって包摂される人々がどのようなタイプの政治権力の下に暮らしているかには無関係であるから、この用法を拡大すれば、或る国家の領域(territory)内に住む人民の集合を指すことができる。いいかえれば、主権者の社会的性格が何であるにせよ、植民地の被支配者をも含めてその支配が及ぶかぎりの住民がネーションということになる。これが第三の意味で、被支配者(subject, sujet)の集合を意味する。実際、国際法や外交用語におけるネーションとは主権国家の人民の総体に他ならないのであって、その際かれらの属する国家の政治権力の性質如何は問題ではない。(36頁)

本来、『国民』は英語のnation、ドイツ語ではNation、フランス語ではnationの訳語であり、『民族』は英語のfolk、ドイツ語のVolk、フランス語のpeupleに見合うことばである。しかし、今日の英語では、nationとかpeopleとかが国民と民族の双方の意味でよく使われ、folkは民族よりもっと小さな単位のグループ、たとえば地方の住民、家族、友人連中などを指す集合名詞として使われることが多くなった。また、NationとVolkも、nationとpeupleもよく似た意味で使われる。

ネーションについての定義としてもっとも有名なのはジョン・ステュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-73)のもので、その要旨は、共通の親近感が存在し、かれらだけの同一政府の下にありたいとの悲願を生む人類の一グループをネーションとよび、その国民感情は人種血統の同一性、言語や宗教の共通性、そしてもっとも強くは共通の政治的経験つまり共通の歴史によって形づくられる、というものである。また、民族についての定義にはよくスターリンのものが使われる。『民族とは、言語・地域・経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を基礎として歴史的に生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である。』

いずれもともに、感情とか心理状態とかいうことばで意識の共通性を重要な指標としており、大差はない。ただ、慣用的には国民と民族とにはかなりニュアンスの違いがある。国民といえば、第二章第一節で説明したように、国家主権による統合の面が強く、民族といえば歴史的文化的つながり合いの面が強くあらわされているのである。たとえば、中華人民共和国ソ連のなかにあるチベット人、モンゴル人、カザック人、タジク人などを少数民族とはよぶが、少数国民とは決していわない。オーストラリア国民ということばは熟しているが、オーストラリア民族ということばは何を指しているのかわからない。これらの例から国民と民族との微妙な使い分けがほぼ推察されるであろう。(142〜143頁)

十八世紀以来多くの思想家、学者によって国民の本質が探究されてきた。その多くが国民の形成に不可欠の条件として、主観的な要素を挙げることで一致している。本節の冒頭に触れたJ・S・ミルの定義がその一例である。フランス革命直後のフランスでは、マルセイエーズの歌に見られるような国民的統一への感情が自然発生的に生まれたように思われ、ドイツでは、同時代にJ・G・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder, 1744-1803)が『民族精神』(Volksgeist)論を展開した。人類文明は普遍性において表出するのではなく、特殊性、民族性において表出されると主張し、その土から生まれるフォルクの言語、伝統を最高度に称揚するヘルダーにとって、国民集団は生物的概念や政治的な概念であるよりも、精神的、道徳的な概念であった。普仏戦争で敗れた祖国フランスを眺めながら国民を定義しようとしたE・ルナン(Joseph Ernest Renan, 1823-92)も、有名な“国民とは?”と題する講演(一八八二年)で、次のように述べている。『一つの国民は一つの魂、一つの精神的原理である。……国民とは、これまでになされた、そしてこれからも喜んでなされるであろう犠牲を共感することによって創造される一つの偉大な連帯である』。

その後の、より学問的な探求の多くも、帰属意識すなわち『同一の国民であるとの意識』を中核的な不可欠の要素とみなす結論に到達している。たとえば、今世紀におけるナショナリズム研究の第一人者であるH・コーン(Hans Kohn, 1891-1971)は、『もっとも本質的な要素は生き生きと活動的な集団意志である。国民集団は国民集団を形成しようとする決意によって形成される』との結論に到達している。また、英国の王立国際問題研究所の有名なナショナリズム研究も、国民の特徴の一つとして『個々のメンバーの胸に描かれるネーションの姿と結びついた、一定程度の共通な感情と意志』を挙げている。

しかし、こうした考え方はあまりにも漠然としているように思われよう。主観的な要素の存在や強さを確認するためには、結局人々自身の意志を問う以外にないと思われるが、具体的に一人ひとりの意志を問うための人民投票が実際に行われた例は少なく、行われてもあまり頼りにはならないようである。また、上述の主観説の結論だけでは『国民集団を形成しようとする決意』そのものはどのように形成されるかがまったく不明である。そこで、国民ないし民族形成の条件を客観的、可視的な要素に求め、『感情』や『意識』や『意志』などが形成される原因をも明らかにしようとする試みが他方でなされてきた。

客観的条件を求める諸説がこれまでに挙げてきた要素の主なものを列記すると、言語、血統、居住地、経済、政治、文化、教育、宗教、習慣、伝統、歴史経験などである。これらの客観的要素のうちのいくつかを共通にする人々が国民集団を形成するというのである。前項に紹介した主観説の主張者も、実際には、こうした客観的要素のいくつかを、『感情』や『意識』や『意志』を形成する副次的な因子として考えている。たとえば、ルナンは同じ講演で種族、言語、宗教、共同の利益、地理の具体的要素に触れた上で、先の結論を導き出しているのである。

ところで、これらの客観的要素の一つないしはいくつかだけを取り出して、国民ないし民族形成の主動因として強調することが行われ易い(ナチにおける種族の同一性の主張のように)が、ルナンもつとに指摘するように、そうすることは現実と合致しない誤謬を犯すことが多い。この客観説の難点は、列挙した要素のどれを不可欠な条件と指定しても、現実のケースと齟齬を来すために、羅列主義に陥ることと、ある要素の共通性がほとんど存在しないにもかかわらず、現実に国民集団を形成している『例外的な』ケースが多すぎることである。

たとえば、ベルギーはオランダ語類似のフラマン語を使用するフラマン人が全人口の六十二・五%、フランス語を使用するワロン人が三十七・五%というように、言語に関しては人口が二分されているけれども、一つの国民を形成していることは誰も疑わない。インドには人口の三十%を占めるヒンズー語集団のほか、人口百万人以上の言語集団が二十二、人口十万人以上の言語集団が二十五含まれている。しかし、国際関係の中では一つの国民として扱われることをインド人自身が要求している。

このように、客観的な要素を挙げるだけでも、やはり国民社会の形成を十分に説明することはできないのである。結局、国民集団の形成に関して、もろもろの客観的条件を挙げる客観主義の学説と、『感情』や『意識』や『意志』を重視する主観主義の学説とを関連づけて、『一つの国民集団を形成し、そこにとどまろうとする意志』、『同一国民であるとの意識』という主観的要素の存在を不可欠と考え、客観的要素はそうした意識や意志を形成するための条件と考えるのがよいであろう。(144〜146頁)

国民社会のなかに複数存在する、身体的特徴や文化的歴史的背景を共通にする集団を、エスニック・グループとよぶことがある。

元来ヒトが社会を構成するとき、最小の共同体としての家族(family)をはじめとして親族(kin)や氏族(clan, sib, 中国では宗族)は血縁が客観的事実としてはっきりしているのが原則である。血縁集団より大きな規模のものがエスニック・グループであり、部族(tribe)、種族(stock)、人種(race)などを含めての総称である。部族という場合は、身体的特徴や文化的歴史的背景の共通性に加えて村落共同体的な側面が強調されるのに対して、種族や人種の場合は身体的特徴の共通性の面が強調される。

日本国民の場合はほぼ単一のエスニック・グループから成り立っており、国民社会が同質のものとして形成されやすかったが、国民のなかに多くのエスニック・グループをかかえこんでいる場合には、国民としての統合が容易でない。(148〜149頁)

■ネーションの三つの定義

①或る文化的特色を共有するようになった同郷人の集合ないし民族(=ethnic group)
②特別の形態の政府をみずからの意志で選んだ人々の集まりであり、そのような形態の政府が、立法府をつうじて行政責任を負うべき対象となるべきだという共通の認識をもった人々の集まり
③或る国家の領域(territory)内に住む人民の集合

【書評】

やはり「国民国家擬制」とか「ネーション・ステートは虚構」という後藤・中西の見解は違うのではないだろうか。これは国民と民族、国民国家と民族国家を混同したことから来る過ちではないだろうか。渡辺昭夫によるネーションの三つの定義からすると、現代における国民とは②・③を含むものであるが、中西・後藤はネーションや国民を①の意味で使っている点で定義を混同している。

一つの民族=国民(ネーション)が、一定の領域を支配して、そこに絶対の主権を持った政治的な共同体、政府、国家を作る。それが国民国家(ネーション・ステート)のシステムだ。現実には、国民の概念と実際の国家の領域はそれほど一致してはいないのだが、地球上すべての土地は、一つの国民国家に属し、すべての人は一つの国民国家に属しているとの擬制の上に、国際連合をはじめとする現在の国際秩序は築かれている。(後藤健生『サッカーの世紀』123頁)

第一文の内容については、国民国家が世界で初めて成立した欧州においてはその通りだったかも知れないが、渡辺の定義にもあるように、国民の意味は②および③へと拡がりを見せている。第二文において、現代の国民についても①の意味のまま使っている点に問題があると言えるだろう。

【注】
なだいなだ『民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理―』(岩波新書、1992年)の書評においても、民族について考察した。詳細は書評を参照(近日中アップ予定)。