大崎正治「地球温暖化と鎮守の森の公共的価値」書評

大崎正治地球温暖化と鎮守の森の公共的価値」『神社本廳繁學研究所紀要』第十号(平成十七年三月)書評


私事になるが、現在我が大学のとある教授に頼まれて、彼に日本語を教えている。その日本語レッスンで使う「教材」として、Center for Asian Studiesで購読している朝日新聞と、その他諸々の日本語雑誌を利用している。無償のアシスタントではあるが、そこで使った「教材」をレッスン終了後に丸ごともらえるのでありがたい。日本の新聞の記事はネット上で読めるが、以前にも書いたように特集モノや論評モノは紙の新聞でなくては読めない。もらったものなので、重要なものは切り抜きも自由にできる。

先日のレッスンで先生からもらった雑誌に『神社本廳繁學研究所紀要』第十号(平成十七年三月)なるものがあった。文字化け確実な古めかしい文字が並ぶタイトルの紀要である。誰かからもらいでもしない限りまず読むことは一生なかったであろう雑誌である。いやもらっても普通は読まないかも知れない。

タイトルからわかるとおり、これは神社本庁に属する研究所が発行している紀要である。神社にまつわる種々の問題について分野横断的に研究者が論文を寄稿している。ド素人にもわかる面白いものもあれば、専門的すぎて全く理解できないものまでいろいろあり、その点では一般的な専門雑誌と変わらない。ただ、研究所の性格上、神社そのものあるいは神社を取り巻く制度や環境についての一般レベルの理解と認識を深める(またはそのために専門家はどうすべきかの考察)という目的を有しているのと、旧仮名遣い(あるやうだ、このやうに、思はれる、などなど)を使用している点が特殊な点といえるだろうか。

その中で最も印象に残ったのが、標題の論文「地球温暖化と鎮守の森の公共的価値」。三万年前に狩猟・採集によって生きていた人類のライフスタイル(「フロー依存型文明」)と現代人のライフスタイル(「ストック依存型文明」)を対比させて、後者の限界と前者への回帰の必要性を説く。前者は「一定量の太陽エネルギーや水循環に依存する範囲を越えない」(36頁)生活、後者が、エネルギー総消費量が「一定量のフローとして流れる太陽エネルギーの照射や水循環の範囲には到底収まらず、地下に蓄積されたエネルギー・ストック(化石燃料)を汲み上げざるを得な」(同)いライフスタイルを意味する。

これだけであるならば別になんら新味はないし、結論として三万年前のライフスタイルへの回帰を説くだけなら短絡的でさえある。しかし、そこは神社本庁の紀要、「鎮守(ちんじゅ)の森」が温暖化を和らげるのにどれほど有効かをそこから検証するのである。

結論から言うと、「鎮守の森がCO2吸収の点で一般の森林に比べて優れてゐるにもかかはらず、工業や都市から排出されるCO2の処理役としてはあまり期待できない」(46頁)。
鎮守の森は、「日本の森林平均値より広葉樹の割合が高」(45頁)く、さらに「大木が多い」(同)ため、一平方メートル当たりの炭素蓄積量が日本の森林の平均値の三倍以上にもなる。都市における気温冷却効果という点でも鎮守の森は貴重な存在であり、それは真夏でも森林の中がひんやりと涼しいことからも想像がつくだろう。にもかかわらず、CO2の吸収量はとても排出される量には追いつかない。当然といえば当然である。

太陽エネルギーやそれに依拠した自然循環の外からエネルギーを持ちこんで営まれてきた近代の人工活動の後始末(化石燃料の消費から排出されたCO2)を森林に負担させることは、もはやできなくなったことが判明したのである。人間の手で汚したものは人間の手で始末するしかないのである。(46頁)

鎮守の森にいます八百万の神々も、地球温暖化には手を焼いているとみえる。

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ついでに、本稿に書かれている、古代と現在の人間の消費カロリーの違いが興味深かったので、以下に記しておく。(1人1日のエネルギー消費量)

【三万年前】二千数百キロカロリー
【一万年前(農業文明の始まり)】一万二千キロカロリー
【二百年前(産業革命)】二十五万キロカロリー(三万年前の百倍)

→「人工が三万年前に比べて千倍に増加したことを考慮すると、人類のエネルギー消費総量は凡そ十万倍に増えたことになる。」(36頁)

→不可避的に「ストック依存型文明」へ移行

※関連書評
吉田昭彦『日本人の心 環境道のススメ』書評