内館牧子『夢を叶える夢を見た』書評

夢を叶える夢を見た (幻冬舎文庫)

夢を叶える夢を見た (幻冬舎文庫)

この本は高校時代以来の親友から薦められて読んだものである。彼曰く、「ここ最近読んだ本のなかでいちばん感銘を受けた本」だったとか。早速日本から取り寄せて読んでみる。面白い。世の中で現状に満足できずに夢を抱えて生きている人々を「飛んだ人」と「飛ばなかった人」に分け、つまり「現状を抜け出して本当に自分がやりたかったことを追求した人」と「夢を抱えながらも、現在の職が保証してくれる生活を捨てきれずに結局そのまま生きた人」に分け、両者において成功した人としなかった人について順に書いている。


自分が面白いと感じた理由はなんとなくわかる。一つは、膨大な数の人に直接会って話を聞いた上で書かれている点。二つ目は――そこから必然的に出てくるものであるが――軽々しく結論づけることなく、各々の人間が持つ個別的で複雑な事情を大切に扱っている点。おそらくこれは、人間にまつわる曖昧な「灰色領域」を描写する際に文学が最も必要とする立場であるように思う。だからこそ、「やらないで後悔するよりも、やって後悔するほうがいい」という人口に膾炙するセリフにも、時に疑問を呈してみせることができるのである。また、インタビューをされている人たち全てが非常に魅力的に描かれているのは、個々の例を己だけの善悪の基準で裁くことを著者が拒絶しているからだろう。巻末解説でスポーツライター藤島大がいいことを言っている。

本書には、偽りの精神世界や薄っぺらな人生訓をふりかざして「ありもしない芯」を語る不埒はない。(458頁)

いくら心に決めた目標があるといっても、それをいつまでも追い求めていればいいというわけではないのは、本書に出てくる失敗例が証明している。「いつかはきっと」と思い続けて現実の虚しさや屈辱にいつまでも浸っていると、「気持が荒んでくるんです」(193頁)。そして「この方が長い人生においては問題だ」(同)と著者は言い切る。それはそうだろう。経済的にも精神的にも、これ以上は自分には無理だと思ったら見切りをつけてスパッと諦めることも場合によっては重要だ。「才能とは、教えることが不可能な領域を、教えなくてもできる能力です。これは天から授かって生まれてきたとしか考えようがない」(178頁、ボクシングトレーナーの田中栄民の言葉)。世の中には、残念ながらと言うべきか、努力のみではどうしようもできない領域もあるということを知らねばならない。


この本を薦めてくれた友人は、今年ついに「飛んだ人」である。彼がなぜこの本に感銘を受けたのかは本当によくわかる。それくらい、飛ぶまでは悶々とした日々が続いたことだろうと思う。例えば以下の箇所などは、おそらく彼は息を殺して読んだのではないかと想像してしまう。

うまくできているシステムだと思うのは、絶対に食いっぱぐれのない給料をもらっているんだよね。だけど、いい思いができるほどの給料は絶対にもらえない。本当に優秀な人たちであっても、非常に適度なところで抑えられている。つまり、おいしい物は食べられるし、不満というほどではないけど、特別な贅沢は決してできないわけだ。これはすばらしいシステムだよ。ミドルな生活を約束してくれて、それ以下にもそれ以上にもしないシステム。ここから飛び出すのはものすごい勇気がいるよ。飛び出す気持にうまくブレーキをかけるシステムになっているんだから。(103頁、著者の匿名の友人)

「一流大企業」のことを言っているのである。一流企業を辞めて夢に戻ってきた友人は、おそらくここでインタビュイーがしゃべっていることを肌で理解できたのだろう。


「飛んだ人」の代表として本書ではたびたびボクサーが出てくる。ボクサーが「世界で最も厳しい職種」(19頁)であることに疑問の余地はないだろう。それはボクシングファンである自分にとって納得できるものである。しかし、著者はこうも言っている。

アンケート結果を見ながら気づいたのだが、若いうちから特殊な仕事を志した人たちは、あまり揺れない。たとえば看護師、福祉関係の仕事、建築やグラフィックや各ジャンルのデザイナー、そして研究者、学者、こういった職種を早くから夢見て、現実にその仕事についている人たちはアンケートで見る限り、揺れが少ない。(63頁)

とんでもない!自分は大学3年生の頃に(まだ漠然とはしていたが)研究者になりたいと思った。それが著者にとって「早くから」に該当するかどうかはわからないが、いずれにせよ「揺れが少ない」というのは大きな間違いである。これまでに、やめるべきかどうかでしょっちゅう揺れたというのが事実であるし、それは同じ立場にある他の人たちも同じだろうと思う。ボクサーほどではないにしろ、アカデミズムの世界もなかなかシビアな世界なのである。またプロボクシングと違って魑魅魍魎が蟠踞している世界でもあることは、川成洋の本を読めばすぐにわかる。夢というものは揺れながらも追求するからこそ夢なんであって、職種による分類はあまり意味をなさないと思う。


世の中にはいろんな苦痛や屈辱に耐えながらもちっぽけな何かに希望を見出して頑張り続けている人がいるということがわかっただけでも、本書を読んだ価値はあった。このような本を紹介してくれた友人に感謝する。いつか著者が書いた小説『義務と演技』(ドラマ化されている)も読んでみようか。