近代日本の「友情関係」:森鴎外と夏目漱石
エッセイ:山崎正和「森鷗外 人と作品―不党と社交」(森鷗外『阿部一族・舞姫』新潮文庫、1968年、巻末)
少し時間に余裕ができたので、ずっと読みさしたままになっていた森鷗外の『阿部一族・舞姫』の続きを読むことにした。「舞姫」や「うたかたの記」などの自伝的小説は、漢文調と和文調が混合しているにも関わらず、とても読みやすくて面白かったが、「阿部一族」や「堺事件」などの歴史小説は、人物名や位の名前などが難解で、読むのに非常に時間がかかってしまった。
しかし、今回ここで書きたいと思っているのは、実は小説の内容そのものについての書評ではなく(それは自分の手に余ることでもある)、巻末で山崎正和が書いている解説についての随想である。
山崎正和の文章は、難解だと言われているが、実際には論理的かつ明快で、現代文の大学入試問題でも度々利用されている。自分自身、その論旨にはこれまで何度も感銘を受けてきたし、今回偶然にして読むこととなったこのエッセイもまた然りであった。
そこで論じられているのは、「近代日本における友情のあり方」である。これは恐らく近代を現代に言い換えても十分通用する内容のものであると思われる。近代日本における二つの人間関係の対照的なあり方を、鷗外と漱石を比較することによって明示的なものにしている。
まず山崎は、木下杢太郎の鷗外描写を引きながら、「鷗外は思想的にも文壇的にも党派を作らず、その意味で厳しく「孤独」でありながら、「いつもサロンの話相手を身の廻りに有して」いた」(252頁)と言う。この一見矛盾する鷗外の行為をどう解釈すべきかが問題になるわけだが、それは当時の西洋に存在した、芸術や思想哲学について語り合う「技巧的生活」の場としてのサロンというものを、鷗外がどのように考えていたかによって答えが与えられる。
まず、このサロンというものが、日本の伝統的な人間関係とはっきり対立する性質を有していた。
明治の一群の知識人にとって、日本には西洋風の社交文化が育っていないというのは、切実な共通の思いであった。江戸幕府の厳格主義的な文化政策は、社交を裏街道の遊廓の世界におしこめ、「富国強兵」を急ぐ明治の社会もまた、個人の優雅な交歓といった観念には無縁であった。人間関係といえば、公の世界では、軍や官や企業の組織化が急速に進められ、また、利害と主張をめぐる党派の力が強まるばかりであった。私の世界では、古い血縁の絆も頑固に残っていたうえ、新しく生まれた核家族はそれ以上に閉鎖的、拘束的であって、いずれにせよ、自由な社交を窒息させる環境を作り出していた。(253頁)
山崎によれば、日本の閉鎖的・拘束的な人間関係について、美術評論家の岩村透が以下のように言ったという。
西洋人の云う交際と云う様なものが日本に行われて居るであろうか。他人の相手になる事の嫌いな、多勢の前に出る事の厭(きら)いな、人に口を開く事を憚り、人の話を聴く事を好かん、自分の感情を人に打開けて語る事をせぬ、他人の前に威張りたがり、己の実力をなるべく大袈裟に見せたがる、と云う、斯様(かよう)な人間が、交際などと云うものが出来るか知らむ。(中略)威張りたいから、人の云う事は聞きたくない、何事も自分一人と云う考では、すべて共同と云う精神から湧(わい)て来る快楽は味えない。西洋風の倶楽部とか或は仏蘭西(フランス)のカッフェの様なものは真似たくも出来ない、矢張り一体の根性が待合の四畳半に合う様に出来ている。(254頁)
志賀直哉や武者小路実篤らの「白樺派」や漱石の弟子ら「門下十傑」は、まさしくそのような閉鎖性と拘束性を有した集いであったという。
明治から昭和にいたるまで、文壇を支配したのは、主義主張を持つ党派であり、師匠と弟子の集団であり、同世代の若者が結ぶ独特の友情の関係であった。思想的な組織集団はしばらく措くとしても、志賀直哉や武者小路実篤の「白樺」同人にせよ、夏目漱石の私宅に集る「門下十傑」にせよ、同じように閉鎖的な気分に包まれた集団であった。(255〜256頁)
それらは、たんに外に向かって排他的であるだけでなく、内の仲間にたいして強い心理的な拘束力を持ち、粘っこい、湿潤な共通感情を分けあうことを要求した。その仲間は、たがいに誠実であることを求めあったが、その場合の誠実さとは、それぞれの私的な感情の真実を吐露しあうことであった。志賀直哉の「鳥尾の病気」に見られるように、若い友人たちは、たがいの憂鬱や神経衰弱すら剥きだしにして、いっさいの「技巧的生活」を排して結びあおうと努めていた。(256頁)
このような人間関係は、現代において幾分揶揄を込めて「体育会系」と言われるクラブ活動内の人間関係と共通点を有しているような印象を受ける。厳しい師弟関係(今風に言えば先輩・後輩関係)の中で、構成員はあらゆる私的な感情や振る舞いをさらけ出すよう要求され、それによって互いに包み隠しのない「ウェットな」人間関係を築こうとする。
この友情の集団には、師匠でなければ、たいてい兄貴分の教祖的な青年がいて、集団内部だけの秘教的な雰囲気のなかで、独特の尊敬と畏怖を集めていた。彼は、友人たちの趣味と教養に裁断的な批評をくだし、その誠実さと忠誠心を試しては、心の最後の殻をも剥ぎとることを要求した。ときには酒席の無礼講の狂態のなかで、ときには読書会や、同人誌の作品合評の席で、この感情生活をめぐる私的制裁は、あたかも青春の通過儀礼のように行なわれるのであった。(256〜257頁)
社交の場合のように、個人が複数の人間関係に距離をおいて関わり、そのどれにも属しながら属さないという自由な立場は、この集団では許されない。(257〜258頁)
しかしながら、充実した西洋留学を経験した鷗外にとって、こうした閉鎖的でウェットな人間関係は彼の好むところではなかった。
鷗外の社交の能力は、彼のドイツ留学中に磨かれ、いわば国際的な水準に達していたことは、『独逸日記』や、『文づかひ』のような初期の小説からもうかがうことができる。彼の描く、貴族や芸術家のサロンの情景は生気をおびているし、現実の鷗外が、宴席でドイツ人学者に反駁して、巧みな即興演説を行なったことは広く知られている。ロンドンで悶々たる孤独の日を送った漱石はもとより、初期の西洋留学生の誰に較べても、滞独中の鷗外が現地の多様な人物と交わり、それを楽しむ機会と能力に恵まれていたことは、議論の余地があるまい。(259頁)
こうした西洋におけるサロンでの社交の経験が、鷗外をして「不党」の人としつつも同様のサロン的な集いを日本でも試みさせたのである。
鷗外も漱石も同じく「不機嫌な時代」を生きた人であった。しかし、そうした鬱々とした時代の中で、どのような人間関係によってその重々しい空気と向き合うのか、についての考え方が二人の間では大きく異なっていた。
明治末年からの十年、とくに文学作品に顕著になり始めたあの独特の不機嫌、きわめて日本的な社会不適合の感情が何であったかについては、かつて別の場所で分析した。(『不機嫌の時代』新潮社)鷗外にとっても漱石にとっても、荷風や志賀直哉にとっても、内面の名状しがたい鬱屈の気分は、時代の共通の病いとして重くのしかかっていた。荷風のいう「私生涯」のなかでは、すべての鋭敏な青年が不機嫌だったのであって、それを根本的に解消するのは、文学という方法によっては不可能なことであった。
しかし、それにしても、この鬱屈を剥きだしにして他人と交わるか、あるいは、これを抑えて「技巧的生活」のなかで交際するか、というのは決定的な違いであって、それが作家の資質の全体と結びついていたことは、無視できない。いいかえれば、作家はじつは文学以前の段階で自己の感情と対決し、ひそかにそれを制御し、整形する作業を始めているのであって、この作業が文学創造に強い影響を及ぼすことは、否定できないのである。鷗外は明らかに、そのさい後者の道を選んだのであり、その意志的で克己的な姿勢が、いやがうえにも彼に自分の人間嫌いを鋭く自覚させたことは、想像に難くあるまい。(260〜261頁)
時代は異なるとはいえ、相変わらず重苦しい空気に包まれている現代において、「技巧的生活」の場としてのサロン、相手に内面の全てをさらけ出すことを要求することなく、芸術や思想哲学について深く語り合うことのできる人間関係、というものをどのように築いていけばよいのだろうか。そもそもそのような関係構築は現代において必要とされているのだろうか。明治・大正を生きた知識人たちの苦悩と社交のあり方が、現代を生きる人々にとっても大きなヒントになるような気がする。もし福田和也が言うように、技術がとどまることなく進歩し続ける現代において、「社交」の重要性は低下するどころかますます高まっているとするならば、日本人の多数派が好むウェットで拘束的なものとは別の人間関係の可能性を考えてみることは、恐らく意味があることだろう。