エリーズ・ボールディング『子どもが孤独でいる時間』書評

子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)

子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)

クエーカーの出版機関が出しているパンフレットの中の一つを邦訳したものと訳者は書いている。著者はケネス・ボールディングの夫人だそうである。後半の宗教的な内容についてはほとんど理解できなかったが、人間にとっていかに孤独な時間が必要かということを説く前半部分は、非常に面白かった。


人は外界から得た情報を噛み砕いて血肉化するために、外界の刺激をある程度遮断できる孤独な時間を必要とする。情報をえり分け、必要なものは体内(脳内)に残し、要らないものは廃棄(忘却)する。自分自身に必要なものと不必要なものを分別し、選んだ情報をあれこれ組み合わせたり入れ替えたりして新たな思索をする。そこから創造性が生まれる。

創造的活動には、途中で妨げられることのない、大きなかたまりとしての時間がいるのです。(中略)脳の内部のすばらしい機械が、外界から受けたすべての印象に(意識と無意識の両層で)働きかけるのは、この大きな時間のかたまりが得られたときなのです。その機会に、脳は、印象をえり分け、並べかえ、新しいパターンをつくる――つまり、創造するのです。(25頁)

ところが、今の子供たちは、びっしりつまったスケジュールに日々追われてすごしている。

その結果、子どもたちに何が起こっているかといえば、かれらがいつもびっしりつまったスケジュールに追われている、ということです。学校にいる間も、放課後も、そしてこのごろでは夏休みまでもが――夏休みは、かつては子どもにとって、内なる心が熟す黄金の時であったのに。(74頁)

どの情報を取り入れてどの情報を廃棄するかを自分でじっくり考える間もなく、次から次と大量の情報を口の中に詰め込まれる。そうでもしないと社会の流れについていけないという名目のもとに。


常々思っていることだが、食べ物を「まずい、まずい」と思いながら食べると、脳の指令でよくないものが体内で分泌されるだろうから、かえって体に悪い。同じように、情報を嫌々に受容していると、かえって精神に毒なのではないだろうか。それなら初めから何も受け入れないほうがまだましである。自身で理解できないものを無理やり詰め込まれても、その人の創造力の成長にはなんら貢献しないだろう。


ところが、世の親たちは「少しでも他の子に遅れをとるわけにはいかない」とばかり、どんどん過剰な刺激を子供に与え続ける。子供が一人で何もせず、ぼーっとしていたりすると、たいていの親は不安に思ったり怒ったりする。「ぼーっとしてないで勉強でもしなさい」などと言って。


そういう親は、巻末に載っている「親たちのための祈り」の以下の部分を自省の契機とすべきだろう。

そして、私たちが、けっして、行動を理解と、忙しさを気づかいと、扇動を愛情ととり違えることのないように助けてください、私たちが、行動と忙しさと扇動とによって子どもたちの前に立ちはだかり、子どもたち自身がそこから飲まなければいけない生命の水へ行きつくのを、妨げることのありませんように。(95頁)