Elke Kharmann, New Threats and New Actors in International Secur

New Threats and New Actors in International Security

New Threats and New Actors in International Security

本書は、国家や国際組織だけでは対処できない地球規模の問題群が冷戦後に噴出したのと時を同じくして、国家や国際組織からその権限の一部を移譲され国境を越えて活動を展開する非国家主体(non-state actors)に焦点を当てる。本書で取り上げられている地球規模の問題とは、麻薬取引(4章)・テロリズム(4章)・マネーロンダリング(5章)・HIV/AIDS(6・7章)・小型武器(8・9章)であり、これらの問題解決のために協力する「新しいアクター」として取り上げられているのはNGO(2・7・9章)と民間安全保障会社(PSC、3章)である。もちろんこれらの問題とアクターは決して「新しい」ものではなく、冷戦が起こるはるか以前から存在していたものである。しかし冷戦の終結と内戦の劇的増加に伴って数が増え、紛争による被害や人権侵害に対する許容度が低下したことも相俟って、問題とその解決を目指すアクターに対する関心が一気に高まったのである。

 まず1章で編者が、私的アクターの影響力の増加は多様な脅威への適切な解決策となるのか、それとも単に国家による介入のツールにすぎないのかと問題提起する。2章では資金面で政府に支えられ、政府との協力に基づいて活動する多くのNGOが真に自立したアクターになれるかという問いに対して、平和構築に携わるNGOを事例にして批判的に分析する。3章は人道NGOがPSCを雇うことに対して中立性の観点から大きな疑問を投げかける。4章では、米国がコロンビア政府を支援して行った麻薬対策(主要な組織を狙い撃ちにする戦略)がアフガニスタンパキスタン、イエメン、フィリピンでの対テロ戦略に適用されているが、麻薬対策と対テロ戦略のいずれのケースにおいても成功しているとは言えないことが指摘されている。5章ではマネーロンダリング対策において、法執行機関と民間部門である銀行との協力の難しさが論じられる。6章では国連PKOの兵士までもがHIV/AIDS感染の媒介者になってしまっている現実を含むいくつかの事例を挙げ、もはやHIV/AIDSの問題が伝統的な意味での安全保障の問題にも大きな影響を及ぼすところまで来てしまっていることが明らかにされている。7章では対照的に、「安全保障問題としてのHIV/AIDS」とは言ってもそれは人間の安全保障に関わることであり、HIV/AIDSの予防・啓蒙に携わるNGOのほとんどが対象としているのは一般市民であると述べられている。すなわち、伝統的な意味での安全保障の論理に基づいてHIV/AIDSの予防・啓蒙を軍などに行うNGOはごく少数であり、伝統的な安全保障とつなげて論じようとするNGOは専ら追加の資金獲得のための戦略として行っていると指摘されている。8章では、冷戦が終わって大国からの直接の武器援助は激減したものの、世界中で暗躍する武器ブローカーが合法的な武器販売や国家の管理・監視制度の不備を巧みに利用して紛争地に小型武器を提供している現実が明らかにされている。9章ではその小型武器の管理について、NGOEU諸国に働きかけて98年の「武器輸出に関する行動規範」へと結実した過程が分析されている。法的拘束力を持たせることまでは成功していないものの、対人地雷と並んでNGOが積極的な国の政府と協力して政策変化をもたらすことに成功した例として紹介されている。最後の10章では編者が各章の議論を総括して、私的アクターがガバナンスに関わることで政治的なアクターとなり、ますます中立的ではいられなくなると述べている。そして、そのもはや中立ではいられなくなった私的アクターの透明性と公的な説明責任を保証する制度がまだ十分に確立されていないと論じられている。また、複数のアクターが関わって生じた結果に対して単一のアクターに責任を負わせることは実際には難しいことも述べられている。

 以上が(多少偏っているかも知れないが)自分なりの本書のまとめである。読み終わってみていろいろな事例から学んだ知識は多かったが、実際には違和感が残った。地球的問題群の多様化がアクターの多様化をもたらし、また反対にアクターの多様化が問題群の多様化を促進している現実はよくわかったが、ではその問題群の解決のためにどうすれば良いのかと問う時、「新しい脅威、新しいアクター」に焦点を当てても、決定的な箇所で決定的な役割を果たしているのは依然として国家(政府)なのである。James RosenauとErnst-Otto Czempielは90年代初頭に「政府なきガバナンス(governance without government)」を論じたが、むしろ本書で議論されているガバナンスの実態の多くは「政府を中心に据えたガバナンス(governance around governments)」のような気がした。国家または国家集団(国際組織)のみでは能力の及ばない問題が多数現れているのは事実で、そのために多くのアクターの協力なしには解決が見込めないにしても、それら複数のアクターの調整・監視・責任は最終的に政府が担うことを期待されている。

 今から15年近くも前に書かれた本の中で、納家政嗣は次のように述べている。

最近の一部のグローバリズム論は変化を強調し、また新たな問題の所在を指摘し、警告を発する点で優れているが、変化するものと変化しないものとをバランスよく考慮するという点ではいささか偏っているといわざるを得ない。連続性と不連続性を過不足なく掬い上げる動的な秩序概念が求められる所以である。(納家政嗣・デヴィッド・ウェッセルズ編『ガバナンスと日本―共治の模索―』勁草書房、1997年、191頁)

啓蒙主義以来のリベラル・デモクラシーという普遍原理と国民国家の特殊性の)矛盾の深さを考えると、グローバリズムと結びついたガバナンスの議論は楽観的過ぎると感じられよう。(同上、13頁)

 さらに同じ箇所で納家は「国家は意味を失うのではなくむしろ融通無碍に適応しつつ、問題処理の実務的枠組みとしてガバナンスを支える中心的な制度となるのではないか」と述べている。この一連のくだりを読んだ時、Krahmann本を読み終わったあとの違和感はすうと消えたと同時に、ガバナンス論の問題の本質は、政策的にも理論的にも15年前と大きく変化してはいないのではないかという気がした。別の箇所での納家の次の言葉を読んだ時、なおさらその考えを強くした。

国際社会が無政府的というのは強制を巡る問題を統制する「公」的制度がないということであった。従って国際社会における統治の問題とは、私的強制力の直接的かつ相互的な管理の問題であり、それにどの程度「公」的な性格をもたせられるかという問題なのである。(同上、208頁)

 「私的強制力」が非国家主体(私的アクター)を意味しているわけではないとはいえ、「『私』にどの程度『公』的な性格をもたせられるか」という議論は2012年の現在においても有効であり、2005年に出たこの本の結論でKrahmannが同じことを書いていても通用する議論である。

 また別の箇所で、納家はガバナンスの用法を三つに分類している。それは(1)R.ギルピンの覇権論に典型的な、支配のニュアンスを強く持つリアリズム的ガバナンス、(2)J.ローズノーやO.ヤングなどリベラリズムの系譜を引いた、物理的な組織の形態を取っていない社会的制度(諸レジームの集合)としてのガバナンス、そして(3)国連ガバナンス委員会が定義する、実務家のためのガバナンス(「個人と機関、私と公とが共通の問題に取り組む多くの方法の集まり、国家・非国家アクターを含む利害調整、協力的な行動の継続的な過程」同上、193頁)に分けられる。本書で論じられている様々なガバナンスの事例は専ら(3)に沿ったものである。納家が論じている通り、(3)のような「国際行政論的なアプローチは、問題提起としては優れているが、具体的な解決策を求める際には再び国家や国際体系の能力を問題にせざるをえず、第一、二の議論に戻ることになる」(同上、194頁)。

 冷戦期は(1)と(2)の対立が自明のものにされるあまり、有効なガバナンス構築のための生産的な対話は抑えられていた。紛争地の平和構築でガバナンスに貢献する非国家主体の役割についての議論の多くは、まだ(3)にとどまっているように思われる。この議論は警告や問題提起の段階から、問題解決策を提示する段階に早く進まなくてはならないのではないか。(1)が含む強制の要素と(2)が含む遵守を促す説得や合意形成の要素のバランスを理論的・政策的にどう考えるべきかという議論に対して、蓄積されてきた事例研究を活用すべきではないか。