没頭
- 作者: 齋藤孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/09/29
- メディア: 文庫
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「いけなかったのは、私が大学院という場所を根本的に間違えて捉えていたことだ。おそらく私に必要なのは仕事だったのだ。それなのに、仕事からもっとも遠い場所に身を置いてしまった。そのせいで私は始終苛ついていた。教室で学んでいても、自分が伸びていないのを感じ、さらに苛立った。」
「そこで、私はどうしたか。こもったのである。」
「私は、博士課程へ行っても、結局毎晩十一時まで大学にいた。正門はとっくに閉まっている。だから、塀を乗り越えて出ていく。なぜあんなに長時間ひとつところにいられたのかわからない。塀を乗り越えて帰る日々。その間、私はずっとその畳の部屋で勉強していた。そのままうたた寝したこともある。日々の基本はそこにあった。これ以上は人間として無理だと思うほどに、私は必死で勉強していた。」
「あれは、不法占拠に近かったかもしれない。あれほど長時間私がそこにいたのでは、たとえ院生であっても寄りつけないだろう。ほかの人がいられないような、よほど悪い空気を発していたのかとも思う。いまとなっては申し訳ない。」
「そんな私を理解してくれる人などいない。私は、話してもわかってもらえないなら、もう人と真面目に話をするのはやめようと真剣に考えた。他愛ない会話は別だが、大事なこと、自分の中のアイデアみたいなものに関しては、人に話さない方がエネルギーがたまると思ったのだ。話すとアイデアが盗まれるというようなセコイ考えではない。だが、当時は本気だ。人に話してしまうと、書く方に使うエネルギーが奪われるような気がした。いまではそういう考えはまるでない。ひたすらしゃべってしまうのは、その反動だろうか。」
「さて、思いをため込むことで本当に生産性が上がったかは微妙だが、博士課程に上がってから私は確かに論文を書きまくり始めた。論文はもちろんまるでお金にならない。だが、ほかにやることもないし、無謀にも私はこの時代に結婚している。男というものは独身の身ではほとんど不まじめだが、結婚すると急に何か運命を背負わされたような覚悟ができる。それを何で表現するかというと、論文しかなかったのだ。そこで私はいわば論文職人と化して、次々にまとめていった。これが孤独の第二期の思い出である。」
「第三期は大学院生の身分すら失い、無職で子供ありの時代だ。この数年間は悲し過ぎて語れない。そのころ私と飲んだ人たちには相当に悪い酒につき合わせたので、この場を借りてお詫びしておく。」