「壁と卵」

朝日新聞2009年2月25日夕刊 斎藤美奈子文芸時評より

先日エルサレム賞を受賞した村上春樹氏は、スピーチで「壁と卵」の比喩を用いた。「もし硬い、高い壁と、そこに投げつけられて壊れる卵があるなら、たとえ壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、私は卵の側に立つ」
この賞を受けること自体の是非はいまは問わない。(それでもイスラエルのガザ攻撃に反対ならば受賞を拒絶すべきだったと私は思っているけどね)。その比喩でいくなら、卵を握りつぶして投げつけるくらいのパフォーマンスを見せてくれてもよかったのに、とも思うけれども、小説家にそれを望むのは筋違いな話かもしれない。
ただ、このスピーチを聞いてふと思ったのは、こういう場合に「自分は壁の側に立つ」と表明する人がいるだろうかということだった。作家はもちろん、政治家だって「卵の側に立つ」というのではないか。卵の比喩はかっこいい。総論というのはなべてかっこいいのである。
(中略)
具体的な日常は、総論みたいにかっこよくない。人を感動させもしない。

村上スピーチについての内田樹の見解。(内田樹の研究室より)
http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。それが「本態的に弱い」ということである。村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。

物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。

「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」  
「ああ。」  
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。  
「嘘だと言ってくれないか?」  
鼠は真剣にそう言った。
(『風の歌を聴け』)