自分が面白がっていないことを他人に面白がってもらうことはできない(上野千鶴子)

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』ちくま文庫、2008年より。

 

言語的な訓練に失敗したか、十分に受けてこなかった子どもたちが、偏差値四流校の学生たちです。でも、その人たちには知識はないかもしれないが、知恵はある。彼らは語り手が「なにを」言っているかではなくて、「いかに」言っているか、本気かどうか、に反応する。それを嗅ぎわけるのが彼らの知恵です。(p.32)

 

 そのことをいちばん感じたのは、女子短大で教えていたときでした。私は短大で一般教養の社会学概論という、だれも関心をもたない科目を担当していたのですが、社会学者の固有名詞を一切言わずに社会学概論をやろうと決めました。そして、彼女たちの日常経験のなかにあるアイデンティティとか青年期とか親子関係とか母と娘とかという主題を選んで、「現実がこんな道具で切れるよ」「あなたの抱えている問題はこうやって解釈すればこういうふうに解けるよ」ということを話したのです。既存の社会学を押しつけようとしたら、とたんに学級崩壊が起きます。私語、雑談、メモまわし……男の目のないところでは、女の子たちはほんとうに傍若無人ですから。(p.32)

 

 自分のことだと思われる話にもっとも食いいるように聞きいった学生は、その短大の体育学科の学生でした。肉体派の女子学生は反応も肉体的です。話がつまらないと完全にそっぽを向くかわりに、女性とか身体とか性とか、自分にかかわるテーマだと、どんどん食いついてきました。(p.33)

 

 それからもう一つ、本気かどうかを嗅ぎわける彼らに向かうとき、自分に課したモラルがあります。教師が嫌いでバカにしていた私が、教師になるしか飯のタネがないとハタと気がついて教壇に立ったとき、私は自分がおもしろがっていないことを他人サマにおもしろがってもらうことはできない、だから自分がおもしろいと思うことだけをやろう、と決めました。(p.33) ※強調は引用者