大人の「評論家たち」を鼻で笑う若者たち

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』ちくま文庫、2008年より。

※強調・下線は引用者

 

 フリーターの若者たちへの論評や分析で最近、目につくものに、フリーターの若者たちはいろいろ夢は語るが、そのために現在、なにかの準備や努力をやっているわけではない、ただフリーターとして日を送るばかりで、自分を見据えることを先延ばししている、それはある種の現実逃避ではないか、というものがあります。(p.229)

 

 しかし、私はフリーターの生き方じたいが、「将来の夢はなんですか」という業績主義の価値観からハズれたものだという気がしています。(p.229)

 

 いまフリーターをしているのは将来の夢のためで、その夢はこういうもので……という、相手を納得させやすいお手軽な答を提供することでインタビュアーを黙らせる。裏返せばそれは、自分の本音を行きずりの、わかってくれそうもない、紋切り型の質問をするおまえなんかに――「夢はなんですか」という質問じたいが紋切り型の極致ですから――私がほんとうになにを大切だと思っているか、言ってやる義理はないよ、というメッセージです(p.230)

 

 それは援助交際の少女たちが、なんでやってるのと言われて「お金のため」と答えるのと同じでしょう。援交少女たちの「お金のため」という答を真に受けて、大衆消費社会における物質的欲望の弊害とか、消費社会における女性の主体化とか、もっともらしく語る評論家と称する人びとがいっぱい出てきたときに、私は鼻でせせら笑っていました。私が笑うというより、こういう「解説」を読んだら、「お金」と答えた援交たちは鼻で笑うだろうなと思いました。お手軽な答に納得して、そのうえで自分にわかりやすい解釈図式をつくりあげる大人たちにたいして、アタシはそんな図式のなかにはいないよ、と彼女たちは思ったことでしょう(p.230)

 

 フリーターの若者がなにを考えているかは人それぞれで、一般化なんかできません。フリーターへのインタビューを読むと、すごくたくましく生きている人もいれば、現実逃避的に生きている人もいる。さまざまです。フリーターとは規格にハマらない人たちの総称、なんでもはいるゴミ箱のような残余カテゴリーの一種ですから。そういう人に、あなたの現在は将来への手段なのだから、将来の目標はなに? いまどんな努力をしているの? と聞くことじたいがどれほど押しつけがましいか、フリーターにかかわる大人たちはわかっていないのではないでしょうか(pp.230-231)