逆風は快楽である(上野千鶴子)

上野千鶴子のサバイバル語録

上野千鶴子上野千鶴子のサバイバル語録』文藝春秋、2016年より

 「逆風は快楽である

 「逆風に強い」とも言われたことがある。

 ひんしゅくは買うもの、とばかり、他人のいやがることをしてバッシングを受けると、来た来た、来た、と身構える。全身の神経が狩人のようにとぎすまされ、いや、サッカーのゴールキーパーのようにあらゆる方向へアンテナが張りめぐらされ、さあどこからでもかかって来い、という油断のない待機モードになる。テンションが上がり、ドーパミンが脳内で放出される。こういう快楽を味わうには、どんなドラッグもいらない。 『ひとりの午後に』」(p.1)

「巨大なる凡庸」としてのテレビ

ジェラシーが支配する国

 

「スイッチを入れれば誰でも簡単にテレビを楽しむことができます。テレビは、幼児から老人に至るまでのすべての人たちが理解することができ、共感することができるものを提示しなければならないのです。万人に理解と共感が可能なものとはすなわち凡庸なものにほかなりません。凡庸化は、テレビの宿命であるといえます。BPOの「巨大なる凡庸」ということばは、テレビの本質を鋭くいい当てています。」(p.215)

 

現代日本は高度な知識社会であり、誰もが何かの専門家であるような社会です。しかしある領域のなかで高度な達成を求められれば、他の領域に目をやる余裕は失われます。あらゆる専門領域が、極めて高度な水準に達していますから、すべての領域を理解し、全体を見通すことなど、誰にとってもできることではありません。たとえば自らの専門領域においては高度な研究を行っている物理学者であっても、法律の領域においては素人=大衆の一人でしかないのです。自分には理解することのできない部分が肥大化した社会は、不安であり、苛立たしいものでもあります。理解不能なものを消し去りたいという、「存在論的不安」に根ざした欲望が、凡庸化を推し進める強大な力となっています。」(pp.215-216)

ルサンチマン(ressentiment)

道徳の系譜 (岩波文庫)

フリードリッヒ・ニーチェ道徳の系譜岩波文庫、1950年、pp.95-97より

「苦しませることが最高度の快楽を与えるからであり、被害者が損失ならびに損失に伴う不快を帳消しにするほどの異常な満足感を味わうからである。苦しませること――それは一つの真の祝祭であり、前述のように、債権者の階級や社会的地位に反比例して、ますます高く評価されるものである。」 

「苦しむのを見ることは快適である。苦しませることは更にいっそう快適である――これは一つの冷酷な命題だ。しかも一つの古い、力強い、人間的な、余りに人間的な命題だ」

学問と宗教

宗教に関心がなければいけないのか (ちくま新書)

小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』ちくま新書、2016年

「『法華経』に「提婆達多品(だいばだったぼん)」というのがあり、そこに、竜女の女人成仏というのが書かれている。これは、竜王の娘の竜女というから、人間ではないのだが、女人のままでは成仏できないというので、「変成男子(へんじょうなんし)」つまり男体になってから成仏するという。成仏するのだから良さそうなものだが、男子にならなければ成仏できないというのは女性差別だというので、「提婆達多品」はもともとの『法華経』にはなく、あとからつけ加えられたものだ、という論文を、中学生の頃に『フェミニスト』という雑誌で読んだことがある。しかしこれはバカげた話で、『法華経』は仏陀以後五百年はたって成立したものだし、キリスト教や仏教が女性差別的なら捨てればいいだけのことで、日蓮宗あたりの熱心な信者でなければ意味をなさない。」(100頁)

 

「自分の思想とあわないところが、自分が信奉するものの中にある、と言ってあわてるのは、私などにはよく分からない話で、「ああそういう部分もありますね」と言えばいいではないか、と思うのである。」(101頁)

 

「これは宗教に限らない。たとえば、一九七九年に中越戦争が起きた時、社会主義国同士の戦争だというので社会主義者がショックを受けたというが、そこまで社会主義に幻想を抱いていたというのが驚きだとはいえ、「悪い社会主義国もある」とは思えないらしい。あるいは呉智英さんが『読書家の新技術』で、マルクスは英国のインド支配を正当化した、と指摘していたが、マルクスだってそれくらいするだろう、と思う。マルクスが間違うはずがない、などと言う人もいるらしいし、マックス・ヴェーバーを批判されて猛り狂って三冊くらい人格攻撃の本を出した折原浩のような人もいて、こうなると社会学でもなければ学問でもない、立派な宗教である。」(101頁)

激情と憎悪煽るメディア

ジェラシーが支配する国

「マスメディアにひろわれるのは、「わかりやすい」声です。(中略)自分の妻と子どもを殺された本村洋さんの「犯人を死刑に!」という訴えは、大きくメディアによって取りあげられました。しかし、すべての犯罪被害者とその家族が加害者への厳罰を望んでいるわけではありません。原田正治さんのように、自分の弟を殺した犯人を処刑しないよう、時の法務大臣に直訴した被害者家族も現に存在しています。原田さんは、死によってではなく、自分の所業を深く悔い、本当の意味で更生をとげることで罪を償ってほしいと強く念じていたのです。」(151頁)

 

「「自分の愛する者を殺した犯人を死刑に」。これはとても「わかりやすい」主張です。他方、自分の弟を殺した犯人の死刑を回避するよう、法務大臣に直訴までするという、原田さんの「自然の報復感情」をはるかに超えた言動を理解するためには、相当の知的な努力が求められます。この「わかりやすさ」という基準によって、本村さんの主張はメディアに取り上げられ、原田さんの主張は排除されたといえるでしょう。」(151頁)

 

「「犯人を死刑に!」と叫ぶ被害者遺族の姿は「絵」になります。そして加害者を糾弾する声には、凶悪犯への怒りをかきたてる力があります。他方、加害者に対する寛大な処置を求める言動は、人びとの感情を高揚させるものでも、「絵」になるものでもありません。激情と憎悪を「鎮める」タイプの言動より、「煽る」タイプのそれの方が、はるかにメディア(テレビ)受けがするのです。」(152頁)

 

「一連の犯罪被害者報道においてマスメディアは、犯罪被害者個々の苦しみや悲しみに寄り添う報道を行ってきたとは到底いえません。マスメディアの煽情的な報道は、受け手のなかに犯罪加害者への憎悪をかきたてて、厳罰化と死刑存置の方向に世論を誘導していったのです。」(152頁)

栗林忠道中将の最期(硫黄島の戦い)

「玉砕総指揮官」の絵手紙 (小学館文庫)

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昭和20年3月17日24時発 栗林兵団長訣別の電文

 戦局最後の関頭に直面せり 敵来攻以来麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり 特に想像を越えたる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは小職自ら聊(いささ)か悦びとする所なり

 しかれども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは小職の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御詫申上ぐ 今や弾丸尽き水涸れ全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方(あた)り熟々(つらつら)皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず 特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思ひ至り縦(たと)ひ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す 茲(ここ)に最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝すると共に只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永(とこし)へに御別れ申上ぐ

 尚父島、母島等に就ては同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく申上ぐ

 終りに左記駄作御笑覧に供す 何卒玉斧を乞ふ

   左記

 国の為重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ

 醜草(しこぐさ)の島に蔓(はびこ)るその時の 皇国の行手一途に思ふ

 

栗林忠道、吉田津由子編『「玉砕総指揮官」の絵手紙』小学館文庫、2002年、pp.235-236より)

 

「畜群」対「個人」

 

ジェラシーが支配する国

「河野さんは、松本サリン事件がオウムの犯罪であることが明らかになってからも、オウムを悪し様に罵ることはありませんでした。河野さんは麻原の逮捕後も、彼を「麻原さん」と呼んでいます。自らにとっての最悪の加害者であった長野県警の警部の名も、自著においては仮名で、しかも「さん」づけで呼んでいます。「……彼にも子どもはいるし、実名を書くと『お前の父ちゃん、犯人をでっち上げようとしたのか』なんて、子どもがイジメられることにもなりかねない。それに彼自体も職務というんですか、上からの命令でやっていたわけですからね。(中略)実名が出ると、彼の家族や親戚が社会的にイヤな思いをするという可能性もあるわけです。それは避けたいな、と思ったんです」」(86頁)

 

「河野さんは、自らを苦しめたマスコミを糾弾するのではなく、人権侵害を繰り返さない報道の仕組みを作るためのシンポジウムに登壇し、発言しています。不条理な経験を強いられながら「うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ」にこり固まるのではなく、過ちを犯した者を赦し、彼らにあやまちを犯させた社会のあり方を変えようとする姿勢が河野さんにはみられます。」(同上)

 

「警察、マスコミ、そして河野さんに種々の嫌がらせを続けた人びとは、自らは巨大な組織や「世間」という安全地帯に身をおいて(警察やマスコミ関係者で、この誤捜査・誤報道のために処分された者は皆無)、河野さんを苦しめていました。単独でのたたかいを続けた河野さんに比べて、その卑小さは明らかです。「個人」とは、たとえ孤立しようとも、悪とのたたかいを貫き通す強さをもつだけではなく、自らの敵をも赦す寛容さをもつ存在であるという事実を河野さんは示してくれています。」(87頁)

 

「「うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ」の問題を、「ルサンチマン」(ressentiment)ということばによって最初に哲学の俎上にのせた、かのニーチェは、「畜群」ということばを使っています。向上への意欲を失い、罪の意識に囚われ、大人しく調教された家畜のような人たちは、自由闊達に生きる人たちにルサンチマン(うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ)を抱くようになる、とニーチェはいいます。」(87-88頁)

 

第二次世界大戦の敗戦は表面的には革命的な変化を日本社会に及ぼしました。しかし、戦後経済が戦時統制の延長線上に発展していったことは、すでにみたとおりです。政治体制の面では個人に基礎を置く民主主義が日本国憲法によってもたらされても、日本人の意識が急速に変化することはありませんでした。」(88頁)