「強制」と「報酬」による問題解決が社会全体のガバナンスコストを増大させる
「途上国や新興国のみならず、先進国においても新自由主義の論理と力学が、従来の社会的な紐帯や信頼を分断し、経済格差や意識格差を拡大し、個人を孤立(原子)化するリスクが顕著になりつつある」(p.51)
「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が低減し、「協調」(コミュニティ・ソリューション)が困難になれば、「強制」(ヒエラルキー・ソリューション)ないし「報酬」(マーケット・ソリューション)による問題解決に頼らざるを得なくなり、社会全体のガバナンスコストは増大する。「他者」への想像力の希薄化は監視社会や訴訟社会、厳罰社会を誘引するとともに、かつて思想家アレクシス・ド・トクヴィルが警鐘を鳴らした、付和雷同的な「多数派の専制」を助長しかねない」(p.51)
「ある個人の活躍や能力がすぐに「ユダヤ人」として括られることが問題だ」
渡辺靖『<文化>を捉え直す――カルチュラル・セキュリティの発想』岩波新書、2015年より
「本来、多様な属性を持つ個人を「イスラム教徒」という大きなカテゴリーのみで括ることはフェアなのか。私が日本の大学の学部生だった一九八〇年代半ば、日本ではいわゆる「ユダヤ本」がベストセラーになっていた。ユダヤ人の活躍や優秀さを称え、その秘訣を解き明かすというもので、ほとんどユダヤ礼賛に近かった。しかし、在京のイスラエル大使館は「反ユダヤ主義」の一種だとして懸念を表明していた。不思議に思い大使館の知人に訊ねたところ、「ある個人の活躍や能力がすぐに「ユダヤ人」として括られることが問題だ。今は称賛されているが、いつ反転するか分からない。そのときの恐さが私たちには歴史を通して身に染み付いている」と語っていたのが印象的だった。似たような乱暴な括り方を「イスラム教徒」にも当てはめているのではないか」(p.vi-vii)
「音楽家は政治になんの貢献もできないが、好奇心の欠如という病に向き合うことはできる」
第8章「文化・スポーツ活動と心の平和構築」(福島安紀子)より
(下線は引用者)
「オーケストラ指揮者ダニエル・バレンボイムはイスラエルとパレスチナの和平を願って、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を設立し、毎年夏に合宿し、世界各地で公演している。バレンボイムはアルゼンチン生まれのイスラエル人であるが、パレスチナ系アメリカ人文学者の故エドワード・サイードと協力してこの管弦楽団を実現した」(p.164)
「バレンボイムは、イスラエルとパレスチナの和平を願い、ワイマールに約70名のアラブ諸国の若手音楽家を招聘してコンサートを企画した。そしてこの式典終了後も同管弦楽団の活動は継続され、長くスペインのセビリアで毎年夏に3週間合宿が行われ、団員たちは演奏の練習をするほかにサッカーや水泳、バスケットボールに興じ、夜は討論の場も持っている。秋には世界各地で演奏会を開いてきた」(p.165)
「バレンボイムは普段接触することのないアラブ諸国とイスラエルの音楽家が寝食を共にして時間を共有することを通じ、音楽への情熱を触媒にして互いを知り合ってほしいと語っている。そして、この楽団に参加する若手音楽家に対しては、「中東紛争の軍事的解決はあり得ないこと、お互いの違いや視点を理解しなければならないことを学んでほしい」と語っている。サイードはこの楽団を「共存への架け橋」と呼んだ」(p.165)
「しかしバレンボイムは、中東和平という言葉を用いるのには慎重である。むしろ管弦楽団の役割について「音楽家は政治になんの貢献もできないが、好奇心の欠如という病に向き合うことはできる。好奇心を持つということは他者の言葉を聞く耳をもつということ」と説明している」(p.165)
文化外交の成果測定の難しさ
「文化活動(文化外交や交流外交)の成果は長期的スパンで評価する必要がある。例えば、アレクサンドル・ヤコブレフが米ソの交換留学生として一九五八年に一年間コロンビア大学に留学したことの成果は、彼がミハイル・ゴルバチョフ政権のナンバー2としてペレストロイカを推進するまで、実に二〇年以上経ってから明らかになったともいえる」(p.153)
「私がハーバード大学に留学していた一九九〇年代には、アメリカ政府からの資金援助を受けて、同大のケネディ行政学院に、ロシアや中国の将校らが数十名単位で招かれていた。近年は、中国政府の官僚などへの研修も行っているようである。こうした交流事業の成果もまた二〇年、三〇年単位で評価すべきものだろう」(p.155)
「二〇一〇年現在、世界約五四ヵ国に五万人以上の元JET生がおり、東日本大震災の際には、彼らが世界各地で被災地のための募金活動や支援イベントを牽引した。各国の大使館、省庁、大学、メディア、ビジネスにも元JET生が数多く存在している。まさに四半世紀におよぶ地道な活動と信頼構築の賜物といえよう」(pp.155-156)
「しかし、そのJETプログラムも、二〇一〇年に行われた「事業仕分け」では、「中学校や高校における英語のスコアの伸びに成果が反映されていない」といった理由から「見直し」と判定され、一時は事業廃止の瀬戸際まで追い込まれる有り様だった。生身の外国人と英語でコミュニケーションできたことは、生徒の内面に少なからぬ変化をもたらした――あるいは変化の種を蒔いた――と思われるが、そうした点が考慮されることもなかった」(p.156)
「厳密に考えれば考えるほど、ある種の変化がパブリック・ディプロマシーによってもたらされたのかは判断が難しくなる。(中略)
しかし、同じことは政策全般に言えることではないだろうか。例えば、ある経済政策の成果を因果関係の枠組みに明確に位置づけることや、客観的な測定や評価を行うことは、そう容易ではないはずだ。アメリカが世界恐慌を克服するにあたり、フランクリン・ルーズベルト大統領が行ったニューディール政策が本当に大きく寄与したのか、それとも第二次世界大戦の軍需増加により多くを負っているのかは、八〇年近く経った今日でも経済学者の間で評価が大きく対立している。パブリック・ディプロマシーについてのみ厳密な評価を求めるのはアンフェアではないか。ましてや、パブリック・ディプロマシーは商売ではない。目先の成果や効率を求めることは、そもそも筋違いである。ビジネス・マインドではなく、ディプロマティック・マインドによって評価することが肝要だ」(pp.156-157)
「人間性という歪んだ材木からは、真直ぐなものはかつて何も作られなかった」
(下線はすべて引用者)
「アマゾンの最深部で一万年以上、独自の文化・風習を守り続けているヤノマミ族。文化人類学の教科書でもしばしば取り上げられる部族だが、NHKはブラジル政府、および部族の長老七名との一〇年近い交渉の末、TV局として初めて長期(のべ一五〇日間)の同居を許され、二〇〇九年に『ヤノマミ~奥アマゾン 原初の森に生きる』として放送、各界から高い評価を得た。
番組は、一四歳の少女が、部族の伝統に従って森のなかで出産したばかりの赤子を「人間」としてではなく「精霊」として天上に送ることを決意し、赤子を白蟻の巣のなかに入れた後、肉を食べ尽くす白蟻ごと焼いて葬るという、衝撃的なシーンから始まる。
ヤノマミ族の少女が行っているのは「人殺し」だろうか。いつから人は「人間」となるのだろうか。人権や生命をめぐる、ごく基本的な認識でさえ私たちとは共有されていない。こうした差異や多様性を私たちはどこまで受け入れるべきだろうか。そして、受け入れることができるのだろうか。「ヤノマミ」とは「人間」を意味し、取材班が「ナプ(ヤノマミ以外=“人間以下”)」と称されていたのが印象的だった」(p.128)
「彼らがアマゾンの奥地にいる限り、あるいはごく少数の集団である限りにおいて、私たちは「寛容」の側にいられるかもしれない。しかし、すぐ近くに、大規模に居住していたとしたらどうだろうか。どこまで「文化の多様性」を尊重する立場を貫けるだろうか。こうした視点や問題点を提起することで、文化人類学は安易な文化国際主義や普遍主義の傲慢を諫める役目を担ってきた」(pp.128-129)
「イギリスの思想家アイザイア・バーリンは、その有名な講演「理想の追求」(一九八八年)において、絶対的な理念のあくなき追求がもたらす陥穽に対して警鐘を鳴らした。保守であれ、リベラルであれ、極端なイデオロギーのもとに「理想の追求」を急ぐときほど、大いなる災いがもたらされることは、歴史の証明するところでもある。バーリンはカントの「人間性という歪んだ材木からは、真直ぐなものはかつて何も作られなかった」という言葉を愛好したが、文化国際主義や普遍主義を誇示する誘惑に駆られたときほど、かえって自らを批判できる「器の大きさ」や「自省力」、すなわちメタ・ソフト・パワーが求められるのかもしれない」(p.130)