マンネリ化する構築主義

〈文化〉を捉え直す――カルチュラル・セキュリティの発想 (岩波新書)

構築主義の考え方には大きな影響を受けたものの、それとて、ある程度慣れ親しんでくると、いわば食材こそ違え、調理法も完成品もマンネリ化している気がした。「初めに結論ありき」のごとく、権力批判そのものが目的であり、結論であり、正義であるかのような議論も多く、ある種の窮屈さを感じるようになった。なかんずく、批判することで自らを高位に置くかのような態度や、批判ばかりで建設的な代替案を提示しようとしない姿勢には違和感を覚えた。学会の発表でも「研究」というより「アドボカシー(政策提言)」ないし「アクティビスト(活動家)」に近いものが散見された」(p.181)

「イデオロギーの絶対性と真性性を問うことは不毛」

〈文化〉を捉え直す――カルチュラル・セキュリティの発想 (岩波新書)

「保守とリベラル、右派と左派、現実主義と理想主義、タカ派ハト派性悪説性善説悲観主義と楽観主義……。「二項対立の発想は古い」と繰り返されてはいるものの、社会や文化にまつわる自らの立場をこうしたイデオロギーの座標軸に位置づけようとする誘惑には、依然、根強いものがある。実際、軸足を固めることで自らのコンフォート・ゾーン(快適な領域)に安住することも可能だ。しかし、私自身は、そうした割り切りに未だ馴染めずにいる。あるイデオロギーが正しいか否かを競い合うよりも、その先鋭化や暴走をいかに回避するかを考えてしまう。あるイデオロギーの無謬性を追い求めるよりも、その共約可能性を模索してしまう。イデオロギーとは人々が世界や現実、人生を意味づけ生き抜くうえでの「道具」に過ぎず、その絶対性や真性性を問うことは不毛だと考えるからである。世界や現実、人生のグレーゾーンやパラドックスを直視しつつ、そのなかにいかに二項対立を超える解や和解を紡ぎ出してゆけるか。その模索に私自身の――少なくとも近年の――知的関心の源泉があるように思う」(pp.202-203)

「芸術至上主義も知と権力の関係から自由ではあり得ない」

〈文化〉を捉え直す――カルチュラル・セキュリティの発想 (岩波新書)

「文化の政策的価値を「不純」なものとして退ける芸術至上主義的な解釈を私自身は何ら否定しないが、それだけが文化のあるべき姿だとも思わない。さらに言えば、文化の政治性に対する批判的・懐疑的な視点はすこぶる大切だが、同様に、文化の真性性や純粋性を前提とする芸術至上主義的な発想や言説そのものの背後にある政治性にも留意が必要だと思っている。芸術至上主義が重んじる審美的価値や実存的価値、さらには資料的価値をめぐる基準や判断も、よりメタな次元では知(ないし生)と権力の関係から自由ではあり得ないからだ」(pp.122-123)

 

国威発揚の目的のために文化が利用(ないし抑圧)された戦時を想起すれば、文化と国家権力の関係には敏感にならざるを得ないが、かといって、今日、ナショナルなレベルの施策を教条主義的に禁忌(ないし抑圧)するのもまた歪であろう」(p.123)

「領土と歴史認識では相手の挑発的な「柔術」にはまってはならない」

〈文化〉を捉え直す――カルチュラル・セキュリティの発想 (岩波新書)

「領土問題に関しては、あくまで「法の支配」の原理原則に基づき、必要とあれば、公明正大に、国際的な枠組みのなかで争うことも厭わない姿勢を示すことが肝要だろう。歴史認識に関しては、同じ国内であっても一致することは難しい。外国との間であれば尚更だが、例えば、当事国のみならず、第三国の歴史家も交えてオープンに議論し、その成果を一切隠すことなく、インターネット等を通して、英語をはじめ多言語で国際社会へ公開するようにするのも一案と思われる。歴史に目を閉ざしているのがどの国か、あるいはどの組織か、明らかになるはずだ」(pp.104-105)

 

「その一方、相手の「柔術」には嵌らない自制心も必要だ。スポーツでは相手の選手を挑発し、ファウルや反則を誘おうとすることは常套手段だが、同じことはパブリック・ディプロマシーについても当てはまる。例えば、韓国系団体を中心とした欧米における従軍慰安婦記念碑の建立や日本海の呼称変更の動きに関しても、日本側が騒ぐほど、韓国側の結束は強まる。韓国側にしてみれば、日本側から過剰反応を引き出すことが出来れば、欧米の主要メディアを通して、それを世界に流布することができる。日本側として反論すべきことは反論するのは至極当然だが、あくまで事実関係をもとに、冷静沈着に行なうことが大切だ。一部の政治家や市民による威勢の良い「愛国的」な言動が――少なくとも中長期的なパブリック・ディプロマシーの見地からは――国益を損ねる可能性は否定できない。偏狭な国益理解に陥ることなく、かつ、自らを低い土俵に貶めることなく、モラル・ハイ・グラウンド(道義的な高潔さ)を保ちながら公明正大に対応すること。それこそが魅力や信頼性、正当性を高める対外発信である」(p.105)

「学生の意見を聞くなんて、プライドがないのか」「僕にその類の「プライド」はありません」

林修の仕事原論

「お金をもらって仕事をしている以上、すべてのビジネスマンはプロフェッショナルです。そのプロフェッショナルが丹精込めた仕事に、お客さんというその道の素人が平気でクレームをつけてくる――。そのとき、プロのプライドは揺らぎます。しかし、そういうときこそプロとしての本質が問われるのです。

 お客さんが商品やサービスに対して不満を述べたとき、「素人に何がわかる」と開き直る態度は感心しません。自分の仕事にプライドを持つことは大事ですが、仕事のゴールとは何かをよく考えるべきです」(p.36)

  

「もちろん真意をわかってくれない相手もいます。しかし、そういう場合にも相手が悪いと決めつけず、わかってもらえるように努力し、工夫する。初めは不満の塊だった相手がついにはよき理解者に転じたとき、やはり自分はプロだなと、そこで初めてプライドを保持すべきなのです。ゴール(目標)はどこなのか、よく考えてください」(p.37)

 

「僕の場合、受講した生徒の成績が上がり、受けてよかったと思ってもらうことがゴール。その手段として授業のクオリティーを上げる必要があるので、そのために頭を下げることは平気です。東進ハイスクールの若いスタッフ(まだ大学生です)には、「授業で気づいたことがあったら、どんどん言ってくれ」と伝えています。

 すると、彼らは優秀なので、「あの部分はこうしたほうがいいのでは」とアドバイスしてくれます。僕はそれを喜んで受け入れ、絶えず修正し続けています。

 「学生の意見を聞くなんて、プライドがないのか」と言う人がいるかもしれませんが、僕にその類の「プライド」はありません。

 すべては結果です。結果を出すために必要なアドバイスであれば、誰が言ったものかなどは、どうでもいいことなのです」(p.38)

教えすぎる先生=考える力を奪ってしまう先生

林修の仕事原論

林修林修の仕事原論』青春出版社、2014年より。

※強調は引用者。

「僕は人に本をすすめません。読みたい本は自分で探すべきだというのが持論です。書店でもネットでもあふれるほどの本の情報があるこの時代に、自分が読みたい本を見つけられないというのは困った話です」(p.169)

 

「僕は生徒に対しても、手取り足取り「こうやってやるんだよ」と導くようなことはしません。できるだけ良質な「考えるヒント」を与えること。これが僕の授業の目的です。「よい種」を生徒に渡して、あとは本人の努力で上手に育てていってほしい。そういう考えです」(p.169)

 

「しかし、実際には、教えたがりというか、教えすぎる講師がほとんどです。「わからせます!」などと叫ぶ講師を見ると、本当に情けなくなります。勉強って、そういうものではありませんからね(なぜ、その講師はそんなことを言うのかといえば、結局、本人自身があまり勉強の本質がわかっていないからなんです。だから、「わからせる」などというバカげたことを口走る)」(pp.169-170)

 

「また、自慢の「必殺の解法」などを売りにする講師も少なくないのですが、それは単に「覚え方」にすぎない場合が多く、次から次へと「覚え方」を教えて、結局、自分の頭で考える力を奪ってしまう講師が少なくないのです。」(p.170)

 

「「覚え方を教えてもらう→(気合いで)覚える→点をとる」。こういうリズムにはまってしまうと、大変なことが起きます。社会に出ても、「こうやれよ!」と誘導してくれる人がいない限り、自分では何もできない人間になってしまうんです」(p.170)

「欲望が散らかっている人間は、永遠に何も手にすることができない」

空気を読んではいけない

青木真也『空気を読んではいけない』幻冬舎、2016年より

「「みんなが食えるような業界になればいい」と格闘技関係者は言うが、逆にそれでは問題だ。勘違いしてほしくないのは、格闘技界は恵まれていないが、食えない業界では決してない。大勢の何も考えていないファイターが食えていないだけだ。「チャンピオンが食えない業界はおかしい」のではない。「チャンピオンなのに食えないファイターがおかしい」ということだ」(p.77)

 

「欲望が散らかって、何も考えていないにもかかわらずメシを食える。そんな業界がまともなわけがない。自らの苦境を業界という外的要因に求めるようなファイターは、どんどん淘汰されるべきだ。はっきり言う。格闘技界のためにも、ダメなヤツは食えない業界のままでいい」(p.77)